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4月がスタートです

大川小学校壁画

4月1日、宮城県石巻市にある大川小学校の遺構を訪ねました。校舎が受けた津波の爪痕は凄まじく、衝撃を受けました。校庭の隅の方に卒業制作と書かれた壁が残されていました。銀河鉄道の絵や、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の文字を見ると、また強くこみあげてくるものがあります。子どもたちはそれほど深い意味を込めて書いたわけではなかったかもしれませんが、津波の犠牲になった子どもたちがいたこの事実が存在する以上、いま生きて暮らす自分もまだ決して幸福を感じることはできない。そのような打ちのめされる感覚です。「裏山」もその通り眼前にあり、最終的に皆が目指した「三角地帯」もすぐそばです。校庭は静かでしたが、13年前にここで50分の間、激しい葛藤やせめぎあいが繰り広げられていて、そして命が失われていった現場でした。現場の空間に実際身を置いてみないと理解できないことは多くあります。写真で見る遺構の姿とリアルな目の前にある姿はやはり違いました。

 

大川小学校建物入り口付近

学校は地区住民の避難先でもあったことから、発災後集まっていたのは小学生だけではなかったのですね。裏山に登り津波から逃げたいと話す教頭先生と、地区住民の代表と言うべき区長のそれに反対するやりとりがあったと記録にありました(ネットでの検索記事も含み)。本当にあの時の場面で、余震が続きしかも雪の舞う状況です。若くて登れる子どもを抱える学校の先生と、とても年寄りたちに山登りを強いることはできないと思う地元住民の立場の拮抗が想像されます。先生も、子どもたちだけでも裏山に避難にします、とは言えなかったのかと思います。「山へ逃げよう」と叫ぶ子どももいたのです。本当はそう言わなくてはいけなかったのでしょうが、津波はここまで来ない、というムードが全体にあったのですね。また子どもたちが山へ避難を始めれば、残る地元の年配者たちも不安と動揺を感じることは当然です。いろんな思惑が交錯する状況です。

どんな集落にもあり得る立場の違いの構図でしょうか。校庭に集まっていたのがもし小学生と先生だけであったなら、迷わずに裏山に避難していたと思います。でもいろんな人たちがいた。「多様性の尊重」などと言う言葉は吹き飛んでしまうような、命懸けだった状況と思います。自分の住む地区の区長や、また町長とかにこの《大川小学校の問い》を投げかけてみたいと強く感じました。でも、その実際にリアルな現場に遭遇しないと判断は出ないことと思います。

学校正面の入り口ロビーには花が飾られていました。暗くて見えにくかったですが、もしかしたら折り鶴の束だったかもしれません。

北上川の最上流域から、まさに河口への旅でもありました。

 

関谷洞窟住居跡外観

とはいえ、北上川沿いに下って来たのではなく、当日は大船渡へ向かい、そこを経由しての石巻への旅になりましたが、途中、大船渡で縄文人の住居跡であるとされる洞窟をGoogleマップで見つけたので、立ち寄ってみました。関谷洞窟住居跡という場所です。

 

関谷洞窟住居跡内部

奥の方まで行ってみよう、と思っていいた好奇心は、入り口に立ち入った時点でたちまちにして消失してしまいました。奥まで行けば100mくらいあるそうですが、絶対ムリ。この状況で携帯のライトだけで奥には進めません。第一、怖いです。道に迷って出て来れないかもしれないし、何者か、異なるものがいるかもしれません。もし5人くらいいて懐中電灯も持参していれば突入できたかもしれませんが。。写真の暗がりのところまですらも進入できませんでしたね。

次いで、石巻へ向かいました。この辺り、宮城県に至るまで無料の高速が整備されて、快適に走行できました。

 

ハウス完成2024

稲の種まきの時期が近づき、水稲育苗ハウスのビニールを掛ける作業をしています。左手首の骨折が原因で左手親指の伸展腱が切れてしまったその接合手術を受けて、まだ日が浅く、その接合箇所の再断裂の危険を医師から厳重に注意されています。ハウスのビニール張りをする前に、雪の重みで曲がってしまうため秋に外したハウスの下部の直管横パイプとジグザグ(ビニペット金具)を固定金具でパイプ本体に再装着し、次いで下から腰巻きビニール、前後の褄のビニール設置までを昨日、左手親指を気にしつつ行いました。翌日の本日4日、屋根とクルクルのビニールを張り、午前中でハウスの準備は完了しました。とはいえ、結構あちこちビリビリに裂けています。毎年強風は必ずありますから、ビニールもそう何年も持つものでもありません。前後や腰巻きなど強風を受けにくい部分もビニールが劣化してビニペットのジグザグがうまく装着できない(特に地際など)こともあり、毎年どこかのビニールを新調しているようなものです。来年はこの屋根ビニールが交換になります。午後は、たらの芽の出荷作業の後、破れた部分のビニールの補修を行いました。

取り外したパイプを装着するにも、そして次にビニールを掛け、装着したビニペット金具にジグザグ針金で固定していくにも、結構指の力を使います。せっかく手術でつなげた腱の断裂は嫌ですから、左手をかばいつつ、しかしやはり左手の指も使うんですよね。何度も腱は切れてないよね、と指を動かして確認しつつ、時間をしっかりかけて作業を遂行しました。屋根ビニール掛けはロープで引っ張る作業です。その後の黒テープでのビニール固定でも「結ぶ」と言う作業で指を使います。腱は切れていないだろうか心配でした。

少しでも手術後の回復の時間を設けるために、いまのうちに出かけるとか農作業外の用事があればそれを優先し、少しでも指を回復させて、農作業は後回しにしたい、まだ種蒔きまで時間はある。それが本音ですね。たらの芽作業に関しては、指への負担がなくて、こちらはとても助かっています。ギプスをした左手を使って電動テーブル鋸で穂木を駒木に切断する作業は苦戦しましたが、いまではすべて切断が終わり水槽に入っていて、芽吹きを待ち収穫をするのみです。ポケットマルシェで多くのご注文をいただいてありがたく思います。

雪解けまでもう秒読みの段階になっています。りんどうの畝が出現したら、とても忙しくなります。当面は稲の種まきを早く進めたいですね。当園は晩生系の品種が多く、早めの育苗開始が大事になります。培土を引き取りに行かなくてはなりません。そのタイミングで水漬けした籾の加温催芽を始め、ハトムネ催芽を行い種まきになります。

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稲作がスタートしました

塩水選2024

3月の最終週に種籾を農協の温湯消毒依頼をし、次いで塩水選を行って、稲作がスタートします。亀の尾、ひとめぼれ、ササシグレ、いわてっこの四種の種籾を準備しました。すべて昨年の収穫の籾を使用しますので脱芒や選別作業の必要が出てきます。近所で借りている脱芒機を使いヒゲを取って、というのが最初のスタートですが、あまり上手に取れなかったのが正直なところで、前年の秋のうちに脱芒機作業をしておいた方が、一冬過ごしたいまよりも取れやすかったのかもしれません。

 

脱芒機

前もって脱芒機にかけた後はふるいで雑草の種や土埃を除去し、そして農協の温湯消毒、その後塩水選でしっかり種籾を選別します。特にササシグレは病気にかかって軽い籾が多く、厳重に選別をかけて重いもののみを種として確保しました。最初の写真はひとめぼれの塩水選の様子ですが、ササシグレほどごっそりと浮いてくるものでもなく安心しました。とはいえ塩水を濃いめにしてしっかり選別することは心がけています。

 

籾の水漬け

そして3月27日の夕方から水漬けがスタートしました。かつては、冷害に強く、とか敢えて厳しい環境で育てようとかの理由でこの水に雪を詰めたり、低温環境下で長期間漬けるなどの試みもあったようですが、現在は逆効果と言われ、かえって出芽が揃わなくなったりする危険もあるようで、比較的温度の高い状態で短期間の水漬が主流になっていると思います(積算水温100度で、1日10度平均とすると10日)。とはいえ夜間はまだ気温がマイナスになりますし、10日ではすみませんね。しっかり長く漬ければその後の加温催芽が短くて済むし、漬け方が足りなければその分長く催芽させれば良いと言えるので、あまり厳密には行っておりません。

現在は脱芒機に選別のグレーダーが付いていたりして、プロの種籾出荷農家はきちんと揃った種籾を提供しているし、塩水選はもう行う人はいないようです。薬剤をしっかり使って無病の籾を供給してもいるのです。われわれは自家用の籾を確保するだけの小農家ですので、高額な脱芒機を買うよりも、濃い塩水選で重い籾を確保することが大事です。

 

ハウス除雪1

ハウスの準備も並行して行うわけですが、雪が少なかった年ではあったものの、風が強い当地では建物に当たって跳ね返った雪がそそり立つようにたまってきますので、作業舎に近いハウスの右側にあたる箇所は除雪機による除雪が欠かせません。ハウスの外周をまず除雪します。塊になっているのは、除雪機の後にスコップで削ぎ落としたことによります。

 

ハウス除雪2

右側のパイプの付近は1mの積雪になり、何度も除雪機で掘り下げて飛ばしてやります。とはいえ、普段の年に比べたら楽なものでした。普段ですと硬く凝縮した古い積雪層は除雪機が跳ね返されてなかなか掘り進めていけず、斜めに上に傾いて進んでしまいます。今年は主に3月の積雪が多かったようで、地面に近い部分もそんなに硬くなっていませんでした。

パイプの付近は除雪機で飛ばせないので、あとは自然融雪に任せます。時々スコップで切って落としてやる作業は行うのですが。スコップで切れ目を入れてやるだけでも融雪には効果的です。

 

キリシタン石碑

息子が仙台へ引っ越しし、軽トラで荷物を運んで大型の家財道具が設置できて、ホッと一安心しています。家から運んだ机やベッド、布団、ガスコンロ、自転車などは幌の上部骨組みへの縛り固定もできて、幌付きのありがたさを感じます。荷物を下ろした後にリサイクル店に行き注文していた冷蔵庫や洗濯機を積載しましたが、これも幌フレームへの固定で搬送は楽でした。冷蔵庫と洗濯機ですが、いまは安い製品も多く聞き慣れないメーカーの格安品が生協のカタログ上とかでもみられました。が、自分が昔の人だからかもしれませんが、そうした格安新品よりも中古の国内メーカー品の方が信頼できる気がしました。最終的にどちらが得なのかはわかりませんが、安い新品よりも中古価格のブランド品の方が安心感を覚えるのです。。もちろん日本の老舗ブランドでも海外で製造していることは現実でしょうけど。とにかく時期が移動時期ですし、国内メーカー品の白物家電はリサイクルショップにたくさんありました。

大学の食堂はとても混むという話で、息子も自炊・弁当中心の生活を決意したようです。台所用品とかカーテンみたいな雑貨類は家内が行って手配していますが、とりあえず調味料や洗剤、消耗品などスーパーで買えるものは時間もあって息子と検討しつつ、料理酒とかも含め買い揃えてきました。和食が作れる青年になって欲しいと思ったりします。

さて、帰路は別コースの山道を辿り、宮城県から秋田県へ斜めに横断し、そして横手の方から帰宅をしました。やや大回りではありますが、まだそれほど忙しい時期でもないし、高速代の3,000円を節約し、ドライブ気分も味わって来たところです。湯沢市に入ったところで「キリシタン殉教慰霊碑」へ立ち寄って、雪の残る中運動靴を少し濡らしつつ辿ってみました。このような遺物があると大回りしてでも立ち寄ってみたくなりますね。長野出張時にもそうでしたが、Googleマップを眺めながら史跡等の表示を見てドライブのコースを構想するのは楽しいものです。忘れないように塩水選のための食塩紙包み5kgも購入して家路につきました。ちなみに、この帰途に通った道路(国道108号)のすぐ南に、同じ宮城と秋田をつなぐ県境に田代峠という場所があり、UFOの目撃談が多いスポットがあるようです。冬のこの時期に通行できるかどうかはわかりませんが、何となくそそられますね。

 

仙台駅前で

仙台の駅前を歩いて息子とラーメンを食べてきましたが、やはり盛岡などとは比べものにならない大都会でした。あらためて。。面白いモニュメントに惹かれて入ったペットショップでは、家の犬へのお土産としてはちょっと場違いな感じの用品ばかりで、早々に退散し、歩道橋を上がったり下がったりでラーメン屋に到達しました。

 

たらの芽の様子

現在のメインの作業はたらの芽の出荷です。去年の長野からの帰りで富山湾で負ってしまった手首骨折に関連して、二次的に、左手親指を伸ばすための腱が故障をきたしていました。ただほとんど日常に影響はありませんで、結構な激しさの寒天作業も普通に行えましたが、今年の寒天出張終了後の関西からの帰宅後すぐに、寒天出張の前から予約しておいた親指の長母指伸筋腱を再建する手術を行いました(去年のいま頃に入れたプレートを除去する手術も同時に行い、全身麻酔で2泊の入院です)。現在はまだ負荷がかかる親指の曲げ伸ばしは禁止なのですが、ギプスも取れて適度に親指を曲げ伸ばし動かしつつ、農繁期の到来までに腱の接合部が回復し故障が完治するようにという待機期間になっています。息子の引っ越しでは冷蔵庫や洗濯機を2人で2階に運ぶ作業もありましたが、案外と物を持ち上げるのに親指は使わないもので、まあ一応「静養すべき」身分をのんびり過ごしている次第です。2月後半からの3週間はギプスで服の着替えも辛かったですし、特にたらの芽の穂木を回転鋸で駒木に切断する作業がやりづらかったです。

現在は全ての穂木が駒木になり、それが全部ベッドに並んであとは水管理と収穫出荷のみです。ポケットマルシェで多く注文をいただいていて、ちょうど芽吹きが3月になってからの寒い日々により停滞し、お待ちいただく形になり申し訳なく思っています。均等に伏せ込みをしていっても、3段あるベッドの収穫の段が変わったり、そして気温の変化も加わって、一様のなだらかな出荷にはなりません。出荷が途切れる時期がどうしてもあって、ここは小規模の生産のネックです。ある程度大量に揃う時期もあるので、そういう時は注文が入っていないとまた不安になり、うまくいきません。現在のところほぼ1週間で出荷に応えることができる感じで受注となっていますので、何とか早く芽吹かせて、2日くらいで注文にすぐに応じたいところです。

逆に危険なのはいきなり高温になることで、芽が腐ってしまいます。最上段のベッドはトンネルで上部が全てビニールですので、晴れてくると朝8時前でも30度近くになってしまって危険です。1段、2段目は天井があるために側面だけのビニールなので、急激な上昇はありません。こちらは温度の確保が大事です。ビニール内の空間を温めてはいるものの、いまでも夜明けにはまだ外気は-5度になったりしますので、こうした低温を受けるとどうしても停滞はするでしょう。そしていきなり30度になるのも困りますし、神経を使う作業です。あと2週間、4月10日くらいまでは出荷が続くと思います。PCで調べ物もしたりしながら、左手の静養を兼ねながら農閑期の最終盤を過ごしているところです。

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たらの芽栽培を開始しています

たらの芽2023

晩秋に伐採して小屋に仕舞っておいたタラノキを切断し、芽出しして出荷する段取りを進めています。切断して使うのは8cmくらいで、それ以上長いとちゃんと立っていられないし、短いと水没したり、浮力でひっくり返ったりでまずいのです。が、穂木の先端部は芽の間隔が狭いので短くなり、いつもふかし棚での管理には難儀します。

 

たらの芽2023

切って用意した木(駒木)はすぐ加温水槽に並べるのではなく、24時間以上水に漬けます(浮かんでくるので重しをします)。これで催芽を促進しつつ、かつ樹液を出させる意味もあり、むしろ後者が大事な目的です。樹液でヌルヌルしているとカビの要因となるため、カゴを揺さぶったりもしますが、最終的にはトレイに並べた後に強めのシャワーで洗い流します。

 

たらの芽2023

こちらは畑から集めた状態の穂木と切断の電動鋸です。おが屑が飛び散ってくるためマスクしたりもしますが、エアコンプレッサーで鋸盤の下側周囲をまめに飛ばしてやることで、今年はさほど苦労せずに済みました。エアで掃除しないでいた時はメガネまでびっしり付着して、しかも呼吸で体内にも入り具合が悪くなったりしていましたが。。

 

たらの芽2023

切って、水に漬けて、トレイに並べて、シャワーで樹液を流して、それを棚に配置します。初回のこの伏せ込みは2月18日になります。水槽の構造は、骨組みは25mmのパイプで90cm幅長さ3.6mの3段ベッドを作り、コンパネ・保温マット(スタイロフォームというブルーの資材)・ハウス用のビニール・プラスチック段ボール(一番上)、の順に敷いてあります。

 

たらの芽栽培施設遮光中

栽培棚の外観です。3段ベッドの一番上は、きゅうり用の支柱の曲がり部分をカットして使用しています。中の空間に電熱ケーブルを張って、サーモで温度管理します(電気代を考慮し三相電源にしています)。ここは住宅の一部にコンクリで作った、籾摺り精米の器具や薪などを収納している土間の外側に、単管を組んでポリカの半透明外壁資材を張って作ったスペースで、ここに棚を設置しています。シャッターを隔てて繋がっている母屋のコンクリの土間は穂木を収納、そして切断したり、たらの芽の出荷の作業をするスペースになります。

豪雪地ですので、たらの芽栽培の時期にハウスにビニールを掛けてこの棚施設を設置し営農するという一般的な方式はかなり困難で、こうしたスタイルしか考えられませんでした。以前は屋根部分は単管の上に耐雪の意味でコンパネを敷き詰めて、そして波トタンで屋根にしていましたが、何せ暗かったし、コンパネも悪くなってきたので、光を通すポリカに変更し、しかも2枚重ねで強化しています。骨組みである屋根の単管も2本くらい増やして間隔を詰め、写真のような具合です。これで現状では雪で潰されることはないです。

ただ、栽培にある程度の明るさは必要なのですが、伏せ込みしてしばらくは写真の通り遮光が絶対必要です。最初から明るい環境にしておくと芽吹きの胴体の部分が十分に大きく育たないうちに展葉が始まり、小さくて見た目のバランスも悪い生産品になってしまいます。

 

芽吹き始め遮光中

芽が膨らんできています。本日2月28日です。伏せ込みから10日経ちました。ここでしっかり遮光することで、緑の塊が大きく育ちます。その上でタイミングを見て遮光を剥がして、2本の茎のツノが伸び先に葉が開き始める。ここで収穫になります。畑や天然のタラノキの芽吹きは自然に行われているわけで、ここは人工臭さが残る栽培ですね。。土に根を張った木である場合は木全体のパワーを受けて出芽するのでしょうから、遮光がどうのは関係ないのでしょう。水耕の出芽は小さな駒木の持つ力のみで頑張っており、われわれは水分と気温と光線を与えるのみです。が、その管理は難しいもので、手作り感のある農業スタイルではありますね。大きな外気温の変動に対しても換気とか温度調整に神経を使います。他の品目、稲や小麦、にんにくも自然まかせの露地栽培ですから、そこは大きく異なる点です。

 

5月末のタラノキ園

畑でのタラノキ園地の段階から農薬化学肥料不使用の栽培になり、技術的に結構大変です。タラノキには寿命があり、改植・新植は欠かせませんが、植えたての苗はすぐに草に覆われて見えなくなってしまい、初夏までは足繁く通って管理もきっちりやりますが、7月に入りにんにくの収穫の頃からりんどう出荷の始まる7月下旬より以降は畑に行く時間も減ってしまい、お盆過ぎて畑を訪ねると雑草に覆われてしまってるのですよね。。アスパラ畑なども同じ状況になりがちですが。

タラノキ畑は田植え頃の5月下旬頃に入ると、通路の部分に、地下で張り出した根から出芽したタラノキの若い苗がちらほら見えてきます。写真はその頃撮ったものですが、通路も既に雑草がはびこって、遠くからは苗は小さいしもちろん見えません。通路を歩いて出芽を見つけたら、これをスコップで根の土を崩さないように掘り上げて、黒マルチを張って畝作りした畝の所定位置に定植していく作業が早朝の日課になっていました。

 

タラノキ苗

本来、根を掘り上げて、タオルなどにくるんで保湿し芽出ししてそれをポットで育苗してから畑に定植する、というのがセオリーです。が、実際は出芽率が低く、芽出ししてポットに植えたものも以降はダメになったり難しいです。それよりも地面に出芽してきたものを園地で確保し、畝を作って定位置に定植する方がはるかに現実的と思います。昨年はこの作業で木を増やすことに割合成功しましたので、それが収穫株になる来年2025年春は、是非とも豊富な穂木が得られていますことを願っています。もちろん、この今度の6月も畑をしっかり見回り、芽を出したヒコバエをびっしりの雑草の合間から鋭く発見し、定植し、根付くまでは灌水も怠らず、管理していきたいと思います。慣れてくれば、タラノキのヒコバエの方から目に飛び込んで見つかります。大事なのはこの苗の掘り取り時に、ずっとつながる元株から伸びてきた根をいかに上手にスコップで切断し、その時に土がほぐれ落ちないように確保するか、ですし、問題は後の7、8月の除草なんですね。。生育した収穫株になると、7月以降は枝も張って、通路に入っては行けませんし草刈りなども無理です。こういう茂った株の通路は雑草ももちろん少ないので問題はないのですが、それでも5月6月は雑草だらけですがね。問題なのは生育した木でなくは1年生の苗エリアの夏場の除草(定植の植え穴と通路の両方です)。

 

タラノキ園6月下旬

当園のタラノキ栽培の特徴は、園地・促成栽培施設双方で通常はかなり多用される除草剤や殺虫剤、ジベレリンやカビ抑制殺菌剤などを一切使わずに(カビ対策として食用酢200倍を霧吹きで散布します)、園地も有機質肥料施用のみで生産している点と、赤みの少ない緑色の綺麗な品種を育てていること、そして、市場出荷から店頭に並んでお客さんが手に取るまでの待機期間がないことで、ある程度の展葉を進ませて、たらの芽胴体部分と先端の葉の部分のバランスが良い状態で収穫裁断し、美味しい食感を提供できることになるかと思います。市場出荷の基準で早採りすると、どうしても芽の胴体を食べているというもさっとした感じなので、切ってから即日直送し翌日には届いて冷蔵庫に入れてもらえる遅切り型の出荷スタイルの貴重さを感じます。子どもたちもむしろ葉が占める割合の大きいシャキシャキ感のある小さいたらの芽天ぷらの方が好みのようです。

ちなみに、邪道かもしれませんが、天ぷらの小麦粉をとく時に、同時に塩とカレー粉を混ぜてカレー風味に味付けした衣で揚げるのも美味しいです。

長野の寒天出張から帰宅すると、確定申告などの事務作業と並んで、たらの芽作業が始まり、そして雪が消え春作業へとバトンタッチします。伏せ込みも収穫も体力は要せず、楽な仕事ですし、長時間の拘束でもありません。タラノキがじゃんじゃんと増えていけば作業も多くなるでしょうが、一方で枯死する木もあり、そんなに園地が拡大することはありません。実際、最初に導入した時の圃場面積と変わっていないのです。むしろ第1期定植園地が寿命になって廃園とし、いまは畑が変わって改植を進めている途上で、最初の規模を復活するのが当面の目標です。市場へ大量出荷する営農の人は量が大事だし規模拡大を短期で進めたいかもしれませんが、ここは一人農業、園地の除草管理なども含め、身の丈に見合った生産規模を続けたいと思います。

いまは寒天作業が2月初めに終わってフリーになりますが、それ以前に盛岡で土壌分析の冬期パートに出ていた時は、3月末までの期間の勤務だったので、夜7時過ぎに帰宅して(盛岡からなので)、それから夜なべでたらの芽栽培をし、あとは土日にフル回転でやっていたので結構大変でした。寒天出張は短期で土壌分析より収入も高いですが、夜中から始まる長時間労働になり、ここでかなり消耗しますので、いまはたらの芽作業だけでなく、いろんな調べ物をしたりし、農閑期そのものも楽しめるようでありたく感じます。

昨年は長野からの帰路の旅路で手首の骨折という事態に遭って、その通院に引っ掛けて、北上市の病院から県内近郊へのドライブ旅をして気分転換にもなりました。そうした「軽トラ自由旅」は元々は寒天仕事のための長野への往復の旅路や、たまにある寒天煮込み休止(釜止め)という降って沸いた現地での休日の過ごし方で始まりました。ブログにも掲載している通りで、今年は兵庫までの遠征になりました。

いまもGoogleマップを開くと、いろんな構想が沸き起こります。去年は久々に登山をやってきました(月山)が、昔、出版社にいた時に、東京から同僚とオフロードバイクで同じ山形の朝日連峰の大鳥池(釣りキチ三平で有名になった伝説の岩魚「タキタロウ」伝説の湖)へキャンプに行ったことを思い出し、マップでルートを追跡してみたりしていくうちに、もう一度いまチャレンジしたくなっています。30年前のツーリングの時は関越道で新潟入りし、胎内川とか三面川を遡上した林道ツーリングで登山口まで走ったと思いますが。。

 

大鳥池1992年

こちら岩手から行く時はもう少し楽な4時間ちょっとでの走行で登山口まで到着できます。1992年の時は大鳥池までの往復でしたが、全行程は3泊くらいしたと思います。今度は以東岳まで登って、そこで割合新しくできた避難小屋に泊まってみようかと思っています。小さい避難小屋ですし、ハイシーズンでなく日の長い6月下旬くらいの平日の、天気の良い日を狙って。。先客がいるかも、ですが。。今年なら残雪も少ないでしょう。2日農場を空けるには、前準備も必要だし簡単じゃないですが、こうしたことが農への活力にもなりますから、ぜひ実現したいものです。その前にナメトコ山で練習してからでしょうか。。

癒しという言葉をミノにして歳を重ねて体力が落ちてくることの言い訳にするというのでなく、思いだけでがむしゃらに突き進むというのでもなく、仕事や生活感覚の全体像を見てベストな暮らし方をと、常に思いを巡らせていたいものです。

 

 

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神戸・淡路、イワテヤマナシ演習林への旅路

摩耶山展望台から神戸市夜景

長野・茅野での寒天煮込みが2月2日の天出し(釜から外に出し並べること)で終了し、その日中と翌日のほぼ午前中で、片づけを完了しました。釜からクレーン(ホイスト)のバケットで煮た中身を移し濾す時の布とその下の竹を釜の湯に吊るして漬け、またその釜のお湯をテングサの洗ったのを漬けておく水槽の方へと送り込んで、もう煮るべき草が空になった水槽で、天を入れるモロブタや舟の下の柱とか釜の蓋など重い汚れた木の器具を移動して洗います。天でヌルヌルした汚れは、ヤッケなどについた場合もそうですが、お湯で洗わないと落ちません。大きな木製の舟を10人がかりで地面に降ろし、10個あるマスの中に一人ずつ入ってたわしで洗ってくれたり、庭作業の人の手を借りて、釜部門の片付けは割合早く完了します。言葉だけだとわかりにくいかもしれませんが、こうしたワンチャンスの作業状況はなかなか写真に撮るというタイミングがありませんで。。

そして私の役目は終わり、2月4日の早朝に茅野市を発ち、今回は高速で神戸へと向かいました。

イワテヤマナシを生産し事業化しようという計画を折に触れてお伝えしていますが、その指導を続けてこられた神戸大学の先生が手がけてこられた演習林を見学することが目的です。先生ご自身この春から自らイワテヤマナシの生産加工事業に携わっていこうというとされていて、そうすると大学の圃場を見るチャンスもなかなかなくなるし、しかも岩手へ戻れば改めて神戸(兵庫県加西市ですが)まで出かけることは実際無理なので、この寒天出張からの帰途で大回りをすることが唯一の機会と考えた次第です。

神戸といえば一番の写真は夜景だろうと思いますので、翌2月5日夜の摩耶山からの夜景の写真を最初に掲載いたします。

 

鳴門海峡

そうした思いで旅が始まり、いつものように労務から解放された清々しい気持ちで工場を後にし、出張中に普段よく通った道から最後の日だけに取っておいた高速諏訪インターに入り、中央高速から阪神方面へとハイゼットを走らせて、約5時間後には神戸市三宮界隈に到着し、お昼ご飯となりました。

知人より勧められていた食堂「ほうらく」に行くために、大きな市街地ですからまず問題は駐車です。ガソリン代・高速代は研修旅行の経費として仕方ありませんが、昼食一つ食べるために数百円のコインパーキング代が、というのは田舎者にはとても違和感があります。が、まあ今回はおそらくもう2度と生涯の中でないであろう自走しての神戸旅行ですから、我慢します。

行列を並びきり、食べた後に問題が。。盛岡の大通りなどによくある路肩がパーキングエリアになっているというパーキングを利用し、駐車して「ほうらく」へ行って、長時間並び、美味しく食べて、さあ車にと思って歩いて戻るも、軽トラを停めた場所がわかりません。。東西に停めたか南北に停めたかも覚えていなくて、うかつにもすぐに歩き始めてしまったために、記憶に残っていなかったんですね。30分は無駄な歩きでロスしました。歩き疲れもしましたし。。

その時に神戸市内でやたらに目に付いたのが、冬の厚い誘導員ジャケットを着たシニアの誘導の人たちです。近くに大丸デパートがあったようで、そこへの駐車を誘導しているんだと思いましたが、こうした人が至る所にいて、こっちを見ている気がします。この人何さっきからぐるぐる歩き回ってるんだべ、という目つきのように見えます。自分の軽トラどこですかと訊くわけにもいかず、散々歩いてやっと見つけ、そして、午後の目的地である淡路島へ出発しました(この三宮界隈は後ほど何度も訪れることになります)。それにしてもこの駐車場誘導以外にもですが、何で誘導員シニアの人があちこちにこんなにいるのか。。

阪神高速も走ってみようと乗り入れて、そしてそのまま明石海峡を渡ります。心の準備もないままいきなりぐーんと上に道路が上昇し、橋のポール(車道より上部の両側の柵)?が高く聳え、背後に海の見える光景が眼前に広がったときは、突然でしたので、おぉと少し感動しました。

そのまま淡路島に上陸し、最初の観覧車があるパーキングで軽く休憩した後はそのまま走行を続け、淡路島南端で高速を降りるつもりだったのに、ナビの誘導では鳴門海峡も渡って、え、徳島じゃん?という感じで四国に降り立ちました。鳴門海峡の写真を撮りましたが、残念ながら潮の関係で渦潮は見れませんでした。

 

淡路バーガー&ソフト

淡路島側に戻って島の最南端に近い道の駅で、有名な「淡路島バーガー」を買い、また「玉ねぎソフト」も買って食べました。バーガーは夜のつまみ用にしました。明石海峡の橋も鳴門の橋も有料のようでしたが、地元民には負担ですよね。こまめな高速の乗り降りが続き、ETCにしていて良かったです。初日の諏訪からの利用は休日の割引にもなりましたしね。

 

淡路島の玉ねぎ

淡路島といえば玉ねぎ栽培と知っていましたが、特に南部の方によく畑が見られました。下車して畑のそばで観察もしてきました。4条だったり5条だったりしているようですが、マルチをしていません(例外として少し写っていますが)。除草は一体どうするのでしょうか。相当強力な除草剤を散布してから定植したのか。。定植時に土が動いて雑草の種が露出しはしないか? 雪もなく、2月ですから、10月に定植した苗はこれくらいまで生育しているんですね。かなり化学肥料も入っているのではと推察します。

 

伊奘諾神社

その後、伊弉諾(イザナギ)神宮へと向かいましたが、午後6時になり、真っ暗です。ここではなく、西海岸で有名な夕日を眺めていた方が良かった。。翌日改めて出直しました。夕方6時といえば、寒天の煮込みの時は既に眠りに就いている時間です。通常の時間から夕方5時からの睡眠に移行するのはとても大変でしたが、そのサイクルから通常のサイクルに戻すのはあっという間です。とはいえ、この旅行中、宿で晩酌もしていると、10時には寝落ちしていました。寒天の時は酒は飲んでいませんでしたので、解放されたわけですが、すぐ眠くなり。。

 

神戸異人館通り1

翌日、改めて伊弉諾神宮を参拝した後に、淡路島を出て神戸市内の観光の時間となりました。洋食のランチを食べた後、異人館通りという観光スポットに出かけました。神戸は結構坂の街なんですね。傾斜地に古い洋館が立ち並んでいました。

 

神戸異人館通り2

中に入るのは有料ということで、外観の見物にとどめました。

 

南京町

それから、歩いて南京町という中華街まで行きぶらぶらしました。食べ歩きする人が多くいましたが、どうもこういうところで買い食いができないタチで、歩いただけ。。

 

ほうらくと一平

初日2月4日と翌5日の三宮でのランチです。左は4日に入った「大衆食堂ほうらく」のワンタン普通盛りとオムライスの小のセットでセット割引が入り1,000円。神戸は洋食洋菓子の街という感じですが、中でもオムライスは代表的な存在みたいです。神戸へ行ったら一度はオムライス、ですね。右は翌5日の昼で「グリル一平三宮店」のタイムランチ1,000円です(ライス大盛りで1,100円)。ここもオムライスが人気みたいでしたが、昨日食べたので日替わりランチにしました。もちろん美味しいです!

人気の店というのは行列ができます。今回も神戸を知る人のおすすめに従い、結果、並びました。でもグリル一平の方は店内も結構広くてウェイトレスも多く、要領よくお客さんを誘導し組織的に上手にさばいているという感じで、割合とスムーズでした。

寒天出張中の休日のドライブの時とかも、人気店のラーメン店に入ったりはしました。まあ岩手でも同じ事情でしょうが、定食でもラーメンでもちょっと大盛りにしたりすれば1,000円が当たり前の時代になってしまっているんですね。旅先での日替わりランチ1,000円は別に普通のことでしょうが、このところの外食物価の上昇はすごく響く気がします。貧乏性なんでしょうが、やはり「ラーメンで1,000円」ではちょっと、ですかね。自分としては。それに比べれば神戸の上の2品はリーゾナブルだったと思います。とはいえ、加えて駐車料がかかっているのは気になりますが!

 

ヨドコウと白鶴

この神戸を歩いた日は月曜日で博物館とか閉まっているのは承知していましたが、ヨドコウ迎賓館を勧められていたので、外見だけでもと、東へ車を走らせ、高級住宅街で有名な芦屋市に入り、このヨドコウ迎賓館と、あと近くにあった白鶴美術館の外観のみ写真に収めてきました(岩手ナンバーの軽トラも写っています)。ヨドコウのすぐそばに小学校があって、芦屋の裕福であろうお子様がたの下校時間と重なって、路上の挙動不審なオジサンになっていました。傘をさしていますが、総じてこの旅行は天気が悪かったです。

そのあとは六甲山に向かいまして、まだ日のあるうちに六甲山の有名な展望台(ケーブルカーの終着駅)でまだ明るかった写真を撮った後に、山中の道路を走らせて、西側の摩耶山の掬星台(きくせいだい)という寒天の仲間に勧められたスポットで日が暮れて、最初に掲載した夜景写真を撮影できました。美しかったですが風も強く寒かったです。

この日は神戸市街地の宿泊だったので、摩耶山から三宮の駐車場まで戻って車を停め、ホテルに向かう途中にある、勧められた牛丼の店(「広重」というお店です)に進みましたが、「品切れのため閉店です」の表示。。やむなく、寒天勤務の時にちょっと検索していた餃子のテイクアウトの店を思い出して買いに行き、飲み物をコンビニで買って、重くなった荷物を抱えてホテルまで歩きました。。昨日は淡路島バーガーで、本日は餃子(大)9個で乾杯です。一人。

こうした街歩きではスマホのGoogleマップが頼りです。車のナビとスマホがなければ店にたどり着くのも難しく思い、これは地理感覚の明らかな退化とつくづく思います。昔バイクで旅していた時は昭文社のツーリングマップルのみでどこへでも行っていましたから。

 

BE-KOBE広場

神戸市内(三宮辺り)に泊まって翌朝、三宮駐車場までてくてく歩き、まだ早かったので車に乗ってポートアイランドに上陸し、さらに奥の空港までドライブしました。空港へ渡る橋からの眺めは格別でした。

そしてメリケンパークに向かい、有名なポートタワーは工事中で入れませんが、公園内を歩いた後、10時の開館とともに海洋博物館へ入りました。入館時に外で保育所の子供たちが整列して座り先生の話を聞いていたのですが、後に博物館2階のテラスから外を眺めたら、広場で凧揚げをしていました。BE KOBEモニュメントの方向の写真です。

 

メリケンパーク震災遺構

メリケンパーク内には阪神淡路の震災の遺構が保存されていました。1995年。この震災が1月にあって、3月に地下鉄サリン事件がありました。そのサリンの数日後に東京有楽町の「新規就農ガイドセンター」を訪れて、農業を始めたいがどうすれば良いかの相談をし、そしてその月の終わり頃に知人の縁で沢内村を初めて訪れたのでした。その1年後の1996年4月に移住しました。95年1月17日の震災の日、当時いた東京の出版社では書き手の先生のいた大阪大学医学部と被害状況の電話のやり取りの声が響いていましたし、報道では阪神高速が倒れていた記憶が鮮明です。その復活した高速も走って来ました。

昼食に、昨夜閉まっていた牛丼の広重に再挑戦しましたが、11時半という時間にもかかわらず既に行列ができていて、この後加西市の神戸大に行く約束もあったため断念しました。やっぱり私は並ぶの嫌いです。。

 

神戸大学農学部ナシ園地

高速も使い約1時間で加西市の神戸大学大学院農学研究科に着き、イワテヤマナシ圃場の案内をしてもらいました。ここは400〜500本のナシの木があるわけですが、それを植えたいと思っても大きくなった木を運んで移植するわけにはいかず、移植したい時は、まず別に台木を確保して現地に植え、神戸のこの圃場から希望の枝をいただいて切り運んで台木に接木する、という方法しかありません。その穂木はこちらに豊富にあり、財産です。やまなしはバリエーションがとても豊かで、1本の木が1つの品種ともいえるくらいに交雑による変化が多様な植物で、こちらはそうした多様なナシの保存園として価値ある圃場と思います。

また、多様な実をならせるだけに、さらに希望のナシを得るために人工交配により、いろんな有望な実のなる木より開花期におしべとめしべの受粉の掛け合わせを行って、できた種から地植えで苗を育て、それを切って大きな台木に接木して、それにより実を早くならせて採り、品質を確認する、という息の長い育種の方法も学びました。種の性質はそれぞればらけるので、希望の実がなるかは偶然に委ねられると思います。増殖はその枝を穂木にした接木で、種蒔きの栽培(実生)ではありません。

そうした結果によって今後現代のナシの味や大きさに、イワテヤマナシのみが持つ「香り」がプラスされたナシができれば、それは最強の画期的なことでしょうね。それを「やまなし」と呼べるかどうかはわかりませんが。。

 

浮御堂

神戸大学に長居させていただき、その後はちょっと予定していた京都付近の探索はやめて、高速を使って琵琶湖付近に予約した宿に移るのみでした。スーパーを見つけて夜ご飯の買い物をするも、結局今日も遅くなって、疲労気味です。寒天疲れも残る中ですしね。でもその3泊目は翌日朝食もしっかりあって、琵琶湖から最終宿営地である上越市に向かいました。例年寒天出張で高速を使わずに岩手から茅野市入りする時に、この上越市か長野市辺りがちょうど良い宿泊地になります。岩手を早朝に発ち暗くなるまで全力で走る行程になりますが。。

その旅路のスタートは琵琶湖の辺りのドライブからです。琵琶湖西岸の浮御堂(うきみどう)という寺を見学し、そして北陸へと進みました。

 

白エビバーガー

滋賀も北上するにつれ日本海型の気候になり、福井との県境付近は、道路こそ無雪なれど、周囲は積雪がありました。天気は雨です。道路脇のパイプから豪快に水が撒かれていて路面に積雪させないやり方がされてました。ガソリンでヒヤヒヤしつつも福井市付近でまた高速に乗って、富山まで走りました。福井は2年前に認定農業者のサミットで訪れて、永平寺や恐竜博物館にも出かけたところです。その次の石川県内は高速道路は平常でしたが、被害のあった能登方面への高速は一般車通行止めになっていました。

今回は富山市前で高速を降り、道の駅に立ち寄るだけで、去年食べ損ねた白エビを食べて来ました。本当は生の白エビ丼を食べたかったのですが、こちら道の駅カモンパーク新湊にはありませんでした。時期がまだ早かった?

 

白エビのつまみ

道の駅では白エビのかき揚げも売っていたので購入し(2枚で560円)、最終宿営地の上越市の温泉ホテルで晩酌のお供にしました。その直前には糸魚川市の物産館に立ち寄って、山形にいる娘にヒスイのお土産を買い、また帰路に一緒に山形ラーメンを食べ、2月8日の夜9時前に自宅へ到着し、旅は終わりました。

これからの人生で、もう軽トラックで神戸市街地を走ることは多分ないでしょう。神戸自体に行くことはあり得ますが、チャンスとしては少ないでしょうね。渦潮や神戸牛の牛丼が課題に残りました。食べてませんがビーフカツというのもちょっと気になったメニューです。

これからはたらの芽の栽培作業がスタートします。雪はうんと少なく、現在50cmくらいでしょうか。これから冬本番になるのか、いや早い雪解けでスタートも早まるのか。まだ2月半ばですが。。

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信州の旅、寒天出張後半です

寒天出張も終盤に入り、岩手を離れてから2か月、気分的にも疲れが溜まった日々を過ごしています。暖冬傾向のこの冬は暖かい日も多くて、寒天煮込みが休止になる日も多く、そんな日は普通に夜寝たりするため逆に睡眠リズムが乱れてもいます。やはり楽な仕事じゃありません。

1/1は以前はなかったのですが正月休みとなり、八ヶ岳中腹を南下して来た様子を記事にしましたが、その時に書き残していた稗之底村址について少し報告します。

全然予備知識もないままにいつもの頼りとなっているGoogleマップの記載で「稗之底村」という廃村になった地域を見つけ、何だろうと思い、時間はたっぷりありますので、訪ねてみることにしました。

上の写真はその廃村を守護したであろう神社であり、ここはいまでも手をかけ守られている空間になっているようです。

 

他にブログに書かれている方も必ず触れていらっしゃいますが、中央の石には剣の模様が彫られています。何のメッセージが込められているのでしょうか。。

 

一帯は自然散策路になっていましたが、所々に現れる祠が人里であった名残を示すだけで、特に何かの建築物とかがあるわけではありません。

 

後に教育委員会などが設置した標柱ですね。ここはテレビ番組でミステリースポットのように取り上げられたことがあるそうですが、私が鈍感なせいかそのような独特の空気は感じることはありませんでした。しかし遺跡や遺物と言われる場所はなぜか気になって訪れたくなります。

 

Googleマップで記載された地点まで林の中を歩いてみました。廃村になったというのは江戸時代とかのことで、石以外には何も残されているはずもありませんね。標高も高く気温も低くて作物が穫れる地帯ではなかったということで離村したとあります。飢饉とかもあったのでしょう。冷涼地で耕す一人として、何かしら共感の念を覚えます。

以上は1/1の八ヶ岳山麓の散策からでした。

 

茅野市内に綺麗な滝がありそうということで、1/19の煮込み休みの日に訪れました。「多留姫の滝」だそうです。なかなか綺麗な滝で、歌人らの碑が並んで整備されていました。あまり地元民も観光客も訪れる感じではなさそうですが、お弁当食べたりするには良さそうです。滝のそばには立派な東屋もありました。

 

その後に原村にある八ヶ岳美術館を訪ねました。

 

彫刻家・清水多嘉示氏の作品群の展示がメインの美術館ですが、原村の「阿久(あきゅう)遺跡」の土器土偶も展示されていました。

 

ユニークな表情が魅力的なフゥーちゃんだそうです。

 

こちら中央の「さんころん」と名付けられたおじいさん土偶も楽しいですね。縄文人の表現力には引き込まれるものがありますね。

茅野市には尖石という場所に国宝級の土偶が収められた資料館がありますが、私も寒天2年目くらいで訪れています。

さてこの後、実際に原村の阿久遺跡へ行ってみたくなり、向かいました。解説では蓼科山に向かって列石があるということで、それの確認に行ったのですが、残念ながらそうした遺跡は埋もれてしまったのでしょう。石らしき物は見ることはできませんでした。

 

岡谷市へ向かい、寒天仲間に勧められたラーメン店(麺やてっちん)で昼食した後に、蚕糸博物館の寄りました。この辺は大晦日にも通行しましたが、年末年始は休館で、奈良井宿に向かいました。

 

カイコから絹糸を取り出す装置の変遷がよくわかります。よく1本の繋がった糸になるものだなとは思います。

かつてオーロラ姫が塔に導かれて糸紡ぎの機械の先端の突起に刺されましたが、その辺はわかりませんでした。ヨーロッパだと絹じゃないんでしょうね。

 

実演のスペースでは奥で2名の方が作業をしていらっしゃいました。

そんなわけで昨年に続き出かけることの多かったシーズンになり、大多数の地元の通いでの従事者に比べ、居場所のなさを感じることも多くありました。とはいえ大変な激務でもありますから、時に休日があることは結構なことでもあります。

いかんせん、スマホだけでパソコンがないのはいろいろ辛いところです。スマホで大体用は足せるしありがたい存在ですが、記事を書くのはちょっと辛いし写真のトリミング加工も一切できません。撮った写真のリサイズが難しく、今回は自分宛に写真をメールで添付して送信時にサイズを「中」で選んで送ることでリサイズをしました。パソコンでもうまく表示されているでしょうか。

あと2週間あまり。家に帰ってしたいことは、昼間から焼酎を飲みながらAmazonの映画をiMacで観ることです。

 

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年末年始の長野から

年末年始はテングサの煮込みが3日休止となり、31、1日と出かけて来ました。1月1日の富士山は清里の辺りになりますが、八ヶ岳中腹にある美し森展望台という場所にて撮影しました(展望台へは駐車場から徒歩10分くらい)。

 

振り返ってその展望台から八ヶ岳を見るとこのような感じです。小海線沿いの南側から見た方が荒々しい姿は見られるので期待したのですが、真ん中の低い山がちょっと邪魔してますね。

年末の大晦日に赤岳登山をしましたが、30年も前ですが、小屋に荷物を下ろして山頂へ出かけた際にホワイトアウトで道に迷い、結構道も逸れたようで、ああ、これまでなのか、と思った時に、スッと一瞬前方の雲が取れ、山頂のピークを表す柱が見えました。一瞬なので他所を向いていたら見えなかったでしょう。それはすぐ雲に隠れましたが、その方向へまっすぐ歩いて無事山頂へ着きました。一瞬姿を見せた時、柱が十字架のように見えました。まだ生きていろとの啓示のように思いました。その夜山小屋のふとんの中で顎が痒くなり掻いているとボロボロ皮膚が剥がれてきて、凍傷になったんだとわかりました。正月明けの出勤時(出版社勤務の時代です)にはまだ黒い顎のままでした。。遠い昔の八ヶ岳の思い出です。

 

年末の庭仕事の風景、いわゆる天出しの作業です。私がモロブタに天を注いでそれを包丁で切り、運搬車で現地に運んだものを庭仕事の人たちが受け取って箱を配置し、カイリョウと呼ばれる台に並べていきます。

 

2週間ほど外で凍る溶けるを繰り返した天は「すどり」と言いますが、左の大型ザルに取り集めてハウスの棚で最終乾燥させて寒天が完成します。

 

29日の天出しで釜は休みに入り翌30日は草洗いなど水車の仕事をし、仕事納めとなりました。そしてその夜は忘年会ということで、庭仕事の人たちと一緒にお好み焼きを作り、長野の人たちに広島のソウルフードを伝授しました。いまは全国どこでもソース含め材料が揃います。特に小さいお子さんのいる家庭では、ホットプレートを囲んでお父さんが腕を振るう。うけること間違いなしですね。

 

山下清の美術館がすぐ近くにあり最近知りまして、31日に出かけて来ました。いいですね。貼り絵。身近な素材で生活感もあって、また長野にも縁があったんですね。カレンダーを買って、ポストカードもプレゼントにもらって来ました。末娘への土産です。

 

続いて諏訪の片倉館へ行きました。午前だし風呂は別に大丈夫でしたので400円払って中を見学しました。

遥か昔ですが信州大学に合格が決まった時にすぐに信州の旅行のガイドブックを買い、そこにあった片倉館の画像がずっと残っていまして、訪ねてみた次第です。が、建物の中は特にどうということもなく、建物の外観の写真だけで十分でしたかね。もちろん大多数の人は千人風呂に入りに訪れます。

旅行ガイドブックの表紙にあった安曇野の碌山美術館も頭の隅にこびりついていた画像でしたが、ここも既に寒天出張2年目の時の帰りに立ち寄っています。

 

片倉館の中に入ったから案内表示で気づいたのですが、守り熊という彫り物が外壁に施されていて、面白かったですね。

 

その後には塩尻を経由して、木曽の入り口である奈良井宿に出かけて来ました。妻籠も馬籠も行っておりますが、それらより建物の並ぶ街並みの距離はこちらが長い気がしました。岩手にはあまりないストリートでしょうかね。旅行者気分を味わって来ました。雨で寒かったですが。。

 

さて、この奈良井宿の中で事前にスマホで調べた際に気になっていたマリア地蔵を探し、ちょっとわかりにくかったですが、見つけることができました。なぜかこのような古い像には惹かれるんですね。岩手にもマリア観音像があります。旅行者たちには全く関心を持たれていないようでしたが。。

 

見つかった時には既に首はなかったようです。抱かれた赤子の手に持つものの先端が十字になっていることから、マリア像ではないかと言われ、ここ山深い木曽の地にも隠れキリシタンの信仰の姿があったことに感慨深いものを覚えました。キリシタン自身の手では首を落とすことはできなかったのではないでしょうか。全くの事故かもしれませんし、意図があった行為だったかもしれません。

これで大晦日の旅は終えて、木曽と伊那を結ぶ権兵衛トンネルで伊那に出て高遠経由で杖突峠を通って夕方4時には寒天宿舎に着いていました。遠いドライブに見えて岩手よりは狭いのかと感じました。

翌1月1日には八ヶ岳に中腹を清里方面へドライブして富士山も眺め午後1時には帰って来ていましたが、廃村になった稗之底古村址も途中探索していて、これについてはまた改めて投稿します。

大変な勤務である寒天煮込み作業もまだ中盤に差しかかったばかりで2/5くらいです。こちらでは少量の米の出荷しかできない不完全な農家ですが、2月上旬には岩手に戻ります。今年も何卒宜しくお願いいたします。