田舎で暮らす

田舎で暮らすとは

農村社会で暮らすことに意義があることを痛感して田舎に移住した。都会と同一の文明の利器に囲まれた農村にとって、かつてのような都会との対比は通用しなくなりました。違いは農村の方が自然的社会的環境に恵まれていることと、都会のような収入を上げることができないということです。

私の考えでは、<農村には、今後求められるべきすべてがある>ことで、都会の良い部分を包括しつつ、それを超えている、ということです。違いは当然ありますが、何か次の時代に伸びていくキーワードが隠されていそうな感じです。

そんな考えをちょっとまとめてみました。また、農村ならではの貴重な体験の記録も併せて紹介します。


都会の喧噪を離れてのんびりしたい…
会社の中で歯車のように使われるのは嫌だ…

誰しもそんなことを考え、田舎で悠々自適の生活を送りたいと思ったことがあるでしょう。もっとも都会のネオンを離れては暮らせないと言う人は別として。

でも、そういう希望は週末の旅行で解決できます。暮らすというのは1年365日のことですから、そこまでいかなくとも、満足できる道はあるわけです。ただ単に違った自分を試してみたいだけなら、いずれ田舎暮らしにも飽きて、第3の道を求め転々としなくてはならないでしょう。田舎への移住のさいの困難さを考えると、それにはあまりに代償が大きすぎます。

突き詰めてみると、田舎での暮らしというのは、人が生きていくすべての事象において、その原点となる姿がある。都会生活は抽象的な姿まで進みすぎてしまって、かえって根っこのところがわからない。仕事/生活の二項対立が激しく、どちらも充足できないジレンマを有する。田舎に住んでいると、命令された仕事の遂行にあくせくしている姿も、仕事が終わり、個人の領域に閉じこもって趣味や遊びにこだわったりする姿も、ちっぽけなものに見えてくる。人との付き合いも<機能化>して一面的な自分しか出そうとしない、いや出せない環境…。農村には人が生きる・仕事する・住む・付き合うということの原初的でトータルな形がある。だから、おそらく、私を含め都会から脱サラした人は、それを追究しようとして踏ん切りを決めたのではないかと思います。

シーズーたち
裏庭(小麦を刈ったあと)で元気に走るシーズーたち。ふだんは東京で暮らす犬も心なしか表情が生き生きしているよう。

だから、ただ単に自然に囲まれて暮らしたい…というだけでは、農村生まれの人が都会に憧れるのとなんら変わりはない。もちろん、その人の気質次第で好きな方に住めば良いということにしても良いのですが、私個人の考えでは、いま述べたような田舎の暮らしの特質というのが都会より<より根元的>で<より高次>なライフスタイルであると思われるのです。

感覚的に言うならば、それは<手応え><生きている実感>ではないだろうか?

みんな体を張って生きているんだなあ、その感覚を大切にしたいと思っています。都会でもそうだ、という反論が聞こえてきそうですが、そういう感覚は実際こちらに来て初めて実感したことです。

建築中のわが家もう一つ、マイホームが都会より安価に入手できることも重要です。もちろん、不動産屋さんもない村で、個人から先祖代々の土地を譲ってもらうしか方法はないので、簡単なことではないですが…。

 

 

 

上棟餅まき建築中のわが家を前の借家から見た図(上)と、棟上げのときの餅まき(右)。何もない田んぼだったところに新しく一つの<家>が誕生したことには、喜びと同時に責任感のような思いもあります。<家>という概念はあまり好きにはなれないのですが、少なくともこれからここに長く住まうぞ、ということの表明になるのですから、あとはやるしかない。

 

 

なぜ、沢内に住むのか

<なぜここに住むのか>と問われないでよいのは、郷里にいる場合と東京にいる場合だけではないでしょうか。逆に言えばそれ以外の場所に住んだ者は、一生そのことに自問自答していかなくてはならないと思います。自分で自由に選ぶということはそういうことなのでしょう。

雪下ろし
急斜面で下ろす作業は大変。てっぺん(グシ)から始めてぐるっと回りながら下へ降りてくる。

沢内村は奥羽山脈のど真ん中、日本海と太平洋のどちらからも同じ距離、人口4,000人の山の中の村です。別に知人や縁者がいたわけではありません。積雪は1.5~2メートル。しかも吹雪により溜まるところはもっと溜まる…。

東京や、出身地の広島からはかなり遠く、別にもっと近いところで良かったんじゃないかと言われたものです。

しかし、いま、どこに行っても同じ景観で、同じような店があって、<本当の田舎>なんてのはきわめてまれになっています。都会化が進んだ分、どこの農村も都会近郊型となり、生活全般に渡り、都市と田舎の明確な違いはなくなっています。

吉兵衛マブ沢内村は地方都市からも適度に離れ、変な言い方ですが農業以外に逃げ場を求めることが困難な地域です。だから、専業農家が多い。このあたりが平場で農業を営むことと根本的に相違している点でしょう。だからみんな生きていく姿勢が違う。そして固有の暮らしの文化が伝承されいまも生活に息づいている。

もっともインターネットビジネスの時代になれば、環境の良い山間地こそ脚光を浴びることもあるかも? やっぱりここが一等地?

 

和賀岳渡渉和賀岳山頂村の最高峰和賀岳は手つかずの原生林が多く残る懐深い奥羽の名山。半分近く歩いたところで和賀川源流を徒渉します。登山日はあいにくの雨でしたが、ブナの巨木を見ながら静かな夏の一日をすごしました。

自分の住む町村内にこんな場所も含まれてあるというのはとても嬉しいことです。

高山植物名前を聞いたが忘れた高山植物。

何故、農業を選ぶのか

とにかく田舎暮らしがしたい、という人も当然あります。職は何でも良いから…。

でも、個人的に言うなら、田舎に住む人は自営業を営んで欲しい。

田舎の会社等に就職できたとして、念願の田舎暮らしが叶ったとします。家も建てた。

いままでの都会暮らしとの違いは環境だけです。そして通勤の風景、週末の家のまわりの風景、これらが<当たり前>の環境になるのは時間の問題です。週末に近所のあぜ道を散歩する喜び…これは都会人の週末レジャーの図式と変わりありません。

自営業は自分が社長さんですから、経済の流れ、損得の駆け引き、いや仕事の仕方そのものがダイレクトに跳ね返ってくるもの。ちょっとした油断や運によって、農業では何十万の減収が簡単に起きます。勤めて給料をもらう方がはるかに楽、でしょう。サラリーマンの苦労がわからないわけではありませんが…。

山桜とトラクターここに身銭を切り、体を張って生活に臨む農業の価値があると思います。それにより得られた喜びは給料をもらう比ではありません。そしてそのように努力し続けてきた歴史の重み、が農村文化です。だから<自然に囲まれて…>という動機だけでは少し足りないのです。

こっちへ来てから、レジャーを楽しもうという気分が薄れてきました。東京時代、毎週のようにバイクでつりや登山に出かけていたのに…。農作業に追われ休みというのがとれないということもありますが、勤めと週末、仕事と遊び、という図式が成り立たないのが農業です。これは言い換えれば、農業は大いなる遊び、なんでしょうか。生活を賭けた…。

山桜を眺めながら、初めてトラクターで耕したとき、仕事しているときの最高の充実感が体に溢れていたあの感覚をいまでも良く覚えています。

「農村社会で暮らす」とは

田舎暮らしを考えるときの通過儀礼となっているのが<田舎は地域の付き合いが濃い>ということでしょう。これは書物でも、またいろんな人からも何度も聞かされることです。

近所付き合いが嫌なのであれば、田舎で暮らすのは無理なんでしょう。別荘を建てて地元の人に管理してもらい、あまり干渉し合わずに、休日だけ利用する、という考えも田舎には馴染みにくいようです。隔離された別荘地なら別ですが。

公民館地域の交流の拠点、公民館。冬場には地域の主婦たちが漬け物作りの場としている(昼)。夜は飲み会が多々行われる。

それは人が長年自然を相手に農産物を生産して生きてきた文化そのものを否定することだから…。まず、農村で誰の力も借りずに暮らしていけることはあり得ないでしょう。もちろん現代は<結っこ>もなくなり金銭のやりとりで協力しあう世の中ですが、その土地柄が全く都会と同じようになることは不可能です。

都会はすべて金銭関係に置き換えられるシステムで成り立っています。農村や農業がどんなに進化しても、決して都会と同様にはいかない。農村には農村のシステムが存在し、はっきりは言えないのですが、それはある意味で、都会が次に模索していくべき時代の先端をいくもののように感じられてなりません。

水車3年前に完成した地域の水車小屋。そばを粉にしたり餅をついたり、自分たちの大らかな楽しみのために…

もっとも、農村にも良くないシステムというのは存在します。年配の世帯主が主導権を握っていて、その息子たちの活気を奪っている(可能性がある)ことです。また家意識、本家・分家の意識、これらにはなかなかついてはいけません。しかし私が良いと感じている文化からこの部分だけを切り取ってしまうことも変な話なので、じっくり、ゆっくり付き合っていこうと思っています。

地鎮祭家を建てるときに行った地鎮祭。地元のお隣さんが集まってくれた。

いずれ、近所の農家から酒飲みや集まりの中で聞ける、都会出身者には新鮮な話題を共に大らかに楽しみたいものです。マムシの皮をはいで焼酎に漬けたとか、母乳で熊の子を育てたとか…。家に閉じこもっていてもあまり良いことはありません。酒飲みの機会は無数にありますので、そうしたつながりは大事にしたいものです。

いずれにせよ一日の大半は畑や小屋で黙々と作業しているのですから、事務所で8時間以上みっちり顔を付き合わせて働く勤め人の方が濃密な付き合いになっているとも言えるわけですが…。