有機農業私論

有機農業について

作業場内でボカシを作る。材料を混合し、コモ(稲わらを編んだムシロ)などで覆う。温度計を刺し40度前後で切り返す。

作業場内でぼかし肥を作る。材料を混合し、コモ(稲わらを編んだむしろ)などで覆う。温度計を刺し、40度程度で切り返す。

有機農業(1999年頃の記録である本項ではJAS法に基づいた農法のことではなく、無農薬無化学肥料の農業をさして言います)は、一生かけて取り組むべき課題です。土づくりが1年や2年で出来上がるはずはなく、目に見えないさまざまな技術や知恵に基づいた、農業の原点であり終着点だと思っています。しかし、都会にいた頃にイメージしていたものの通りだったわけではありません。関心のみ強くして、実際に有機農業で生計を立てているわけでもありません。

夏の暑い日、手押し除草機で1日かけてやっと1反歩の田を除草する。ああ、何でこんなことをやっているんだ、売れるかどうかもわからず、いまのこの苦労は一体いくらの労賃になるんだろう…なんて考えが頭をよぎる。「除草剤を使わないということはこういうことなんだ」と肌で知る。いつか報われる日が来るのか、それとも尻すぼみにやめてしまうのか、などなど、そんな地点から始めている現状です。

有機農業の成立には、消費者との協力関係が必須です。そして、ごまかしなく基準を守って作ることはむろんのことですが、それ以上にその生産地の自然・風土のファンとして消費者に付いてきてもらえるような関係が必要と思います。あのすばらしい土地でできたものを私は食べたいのだという…。均一な規格で生産されスーパーに並ぶ市場大量出荷商品を作るだけでなく、それこそ農業の多面的機能というローカルな魅力・価値が競われていくこれからの時代、沢内のような地域こそ消費者や都会人から脚光を浴びなければならない状況にあるのかも知れない。地域の特質を売り、それを支える農法として有機農業を考えていく形で取り組みが進めばよいと思う。農業・農村運動を展開する上でのキッカケの一つに有機農業が位置づけられることは間違いないと思います。

有機農業の実際

私も有機農業は少しやっています。少しというのは、経営のメインは農薬と化学肥料を使用するりんどうであり、自家消費分と若干の産直分のみを無農薬無化学肥料でやっているだけだからです。有機農業部門を伸ばすには労力的に無理があり、現状の規模で良質の生産を目指す方向で考えています。

現在、有機農業を成り立たせている地域は、消費地の近い近郊型の農村(あるいは都市部の農家)であるような気がします。山間地域・都市遠隔地では消費者からの距離がどうしてもネックになり、また消費者との直接交流も少ないため、産直よりも市場出荷が中心になります。有機農業をやる上で、直接お客さんに配達したり非農家の主婦と話したり売り込んだりできるということは大きな意味があり、配達圏内に消費者のいない、つまり村全体が生産者であるような地域では、有機農業は難しいのではないかと考えたりします。地方でも都市部では、同一地区内での生産者と消費者とがつながって会を立ち上げたりして、有機農業の活性化に取り組む例も増えてきました。

では、このようなビルが建ち並び高速道路や新幹線の行き交う商工業の発達した地域のみ、有機農業に「適地」であり、本当に自然が残された清浄なる山間地域は有機農業にとっては「不適地」なのか、と…。これは私たちの地域だけの問題ではないと思います。

こうした点で最も悩ましい局面というのは、山間地の豊かな自然に惹かれ、この地で有機農業をやりたいと言って訪れる就農希望の若い人が、結局いま述べた理由で断念し、諦めてしまう、といった例が起きたりすることです。

有機農業の意味は何なのでしょう。農村にとって、消費者にとって。あるいはすでに一般化した「有機」という概念すらさらに超えた地点での発想も必要なのか。いずれ、有機農業、あるいはもっと深く「農」の本当の適地とは清らかな源流の水が流れ、周囲を深い森に囲まれた、みんなで農業を生業とするような地域なのではないだろうか…。「有機農業」というある意味で「都会的概念」を超えた「農の原点」に根ざした新たな(古くからの?)道を考える時期にまで来ているのだろうか…。都会化・近代化の道を歩んだ農業(有機農業も含め)とは別の視点からの農業を考える? …そんな気持ちでまた春を迎えました。

農村にとっての「有機農業」

有機農業についての考え方やイメージは、都市生活者と農村生活者ではっきり異なっています。

あくまで極論ですが、在来の農家には、有機農業というのは農業をやったことのない都会の人の<遊び>のように受け取られているような気がします。私も含め専業農家は農業で食っていかなければならず、狭い庭に家庭菜園するのと何反歩も営農するのとでは明らかに違う。草取りで労力をかけしかも減収する。現実にそのコストを産物に正直に乗せれば消費者はまず逃げてしまうでしょう。コストをかけずに現実的な代価で販売できるためには相当な経験を要することで、しかも市場を相手に規格を徹底した同質のものの大量生産という方式からも離れた不安定な体勢になる。まずこの間暮らしていけるかどうかが問題です。こうしたこともあり農村社会では有機農業は特殊な人のやることだ、という観念が一般的だと思います。そして生きていくために真夏にカッパを着て消毒をせざるを得ないのです。

だから、有機栽培に関心のある農家でも、できる範囲で小規模にやっていくしかなく、ある程度の需要に応ずるためには地域協同の出荷体制が必要になってきます。しかし協同出荷になると、完全な無農薬無化学肥料が実現されない傾向になるのも、昨今の報道が示すとおりです。では個人で少数の消費者たち相手にやれば一番確実ですが、問題はそうした消費者との間に真に信頼するに価する息の長い関係が得られるか、であり、試みてはみたが後味の悪い結果も生じうることで、そうしたことからやめてしまう例もありえます。いずれ地域が全体として取り組んで<産地>として形成されてこそ大きな力になるわけですが、有機農業にそれを求めるにはまだまだ道のりは遠いと言えます。

それにしても、土づくりは農業の原点であることは不変の真理で、これから20年30年土を相手に生きていく若い層の農家にとっては、たとえ食べ物でない花栽培だろうが避けて通れない問題です。堆肥について考える、微生物について話し合う、そうした地点から<農業の永続性>についてまじめに考える地盤を農村社会において作っていくことが何より必要ではないでしょうか。農村社会において最も重要な有機農業的ファクターは<農家自身の健康上の安全性>と<農業・土の永続性>なのだから。そして農村から消毒散布を減らし、より安全な農産物、それに、より健康な農家、を生み出させるためには、やはり消費者の協力をなくしては不可能です。経済面でも、意識面でも。

都会生活と有機農業

都会に住んでいて知識として<有機農業>を勉強しても、なかなか理解できないことです。もちろんそんなに難しいことではないのですが…。

現代農業では、最大の敵は病気です。病気で生産が半減あるいは全滅してしまうことの恐さは農家でないとわからないことです。また自分のかわいい稲がイモチ病にかかってしまったら…。自分の子どもが病気になったとき病院で薬を投与されることを拒否する親は通常はいないのと同様です。

だから、イモチになって農薬を使うことにならないよう、気を使います。でも、それでももしイモチになってしまったなら、それ以上病気が広がる前に私は散布するでしょう。

都会の消費者は有機農産物に<安全性>を期待します…。たとえば米の場合、農家としては、イモチになりにくい品種を選びたいと思います。しかしその品種はツヤがなかったり、粘りがなかったりして、いわゆる良食味米とは言えません。少なくともそれが沢内のような中山間地での実状です(昨年は最上級の米がとれましたが)。そして消費者は<安全性>を訴えながらも、結果的にはいわゆる食味を基準にして商品を選ぶ、ということがあるようです。

消費者はまず生産地域を知り、理解し、この地域でとれた有機米が欲しい、というようになって欲しい、と思うのは農家の側のワガママでしょうか…。むしろこうした山間の源流域の清らかな水と土と空気の恵みで出来た米こそが、他の何物にも勝るものだと自負してしまうのですが…。いずれ、良い食味を出すためにどういう肥料設計をやればよいのか、研究課題は尽きません。それがまた楽しみであり、農閑期を持つ地方のゆとりでもあります。

都会にいたときと考えが変わった部分があるとするならば、それは、やはり都会生活の中では実際の農作業の辛い部分、厳しい部分というのは理解できない、あるいは理解できるための射程に入ってこないな、ということです。

前頁で触れたように、市場の欲する規格に合った農産物を生産せねばならず、勤勉に消毒し、除草剤を散布し、体を損ねてしまった農家もいます。農薬に含まれる有毒物質を一番かぶるのは農家です。

こうした事情を都会の生活者には、まず気にとめて欲しい。消費生活の枠だけにとどまらず、生産地、農村を知り、あるいは知ろうと努めて欲しい。そういうところから始め、大きな流れができてくれば、何年か後には多少事情が変わってきているでしょう。村でも現在も水田に対し航空防除が行われている区域があります。農家にとっては自分で散布するよりも労力が大幅に軽減できるからです。そんなことも少しだけでも気にとめていて欲しいと思います。

農業を語り、農業の周辺で飯を食う人が多い中、さまざまに流される<情報>だけでは食料の生産地のことはわからないし、断片的な知識が身についても、一時のことで、何にもなりません。まずは農村に足を運び、そこでの生活を肌で見て経験する機会を持つことが必要だと思います。農村の人はしょっちゅう、都会に出かけているのですから、その逆もまたあって良いでしょう…。

その中で農業に対する価値観が高まることにより<食べるもの><生きていること>へのいとおしさが増すことだろうし、農産物を単なる商品として競争原理の中で価格を競わせることへの違和感を感じ取って欲しいものと思います。工業製品とは全く異なった種々さまざまの自然環境のもとで生み出される生きものなのだから。