昔の百姓

 

 

文字どおり自然のサイクルとともにあった山里の暮らし。年間を通しての農作業、暮らしの様子を顧みてみよう。それは豊かな経験と技術の宝庫であるに違いない。昔の話だ、と割り切ることは簡単だが、農の姿勢、耕す心は変わるまい。古老の語る昔話の核にある部分はいくら聞いても計り知れないが、その支えとなった精神は尊重したい。農業の様式がいくら変化しようとも、これを忘れた農業は、他産業の中に埋没し、没落するしかないと思う。なおここで「昔」と言うのはおよそ50年前のことである。


■春の百姓は忙しく仕事も多彩

春まだ浅い3月、雪が「固雪」になった頃、山へ入って木を切り出す<春木山>。チェーンソーのない時代、「ヒキリ」(ノコギリ)でゴリゴリと切り、それを橇に載せて運び出し、一年間の薪とした。使う道具は実にさまざまで、<トンビ>を打って木を動かし、馬橇で運んだ後、<クサビ>と<鉞>(まさかり)で小さく割って薪を作る。実際に運び出しをやってみたが、山の中で重い木と格闘するのは大変な重労働だ。夜に酒を飲んで目の前がグルグル回った。

木の切り出しが終われば、今度はこの橇に、馬屋(まや)から堆肥を出して積み、田に運ぶ。まだ1メートル近く雪がある頃だ。この雪を掘って堆肥を投入する。掘らずに雪の上に置けば雪が消えないからである。木も堆肥も雪(固雪)があるときが運搬しやすい時期である。雪が消えると、堆肥を背中に背負って田の全面に散らかしていく作業だ。

4月も半ば、雪が解けると、裸足で冷たい田に入って、鍬(くわ)で田を起こしていく。ねっとりとした田の土に鍬を入れることは容易ではない。トラクターで掘る場合も含め耕起を「起こす」または「打つ」と言う。鍬を打ち込み、ボコッと固まりを起こすことに由来すると思う。そのあとは<コキリ>という固まりをこなす作業。もちろん現代のように「耕す」とまではいこうはずはない。しかし、重い機械も踏みつけず、堆肥を毎年連用したことは、土壌の団粒構造を守る上で、理にかなっている。そして代かきはもちろん馬の仕事。小さい時分から大きな農耕馬をコントロールして扱うのはおっかない思い出であったに違いない。棒を馬の鼻づらに当てて操作するのである。

おんばさん<畑仕事や生活面で指導を仰ぐ先生。先生の昔語りを記録にとどめるのは筆者の使命である。>

 

種もみは馬の糞(+敷きわら)の温かみで催芽させ、苗代に蒔いて育苗する。春は屋根の葺き替えに始まり田植えが終わる6月まで慌ただしい。田植えは、歌を歌ったり、休憩(タバコ)には酒を飲んだりしてやったものである。小さいワラシは<モッコ>に苗を背負って苗代から本田へと往復し、田の中の大人に向けて苗を投げる係である。機械化したいまの田植えは家族単位でで黙々と進んで行き、お祭り的要素はなくなった。田植えが最後に終わった家は、終わったことをふれて歩き、そうすると<さなぶり><オッキリ休み>で地域全体が一段落して休暇になる。いまでも年配者は、隣の田植えが終わらないうちは温泉へ行く気分になれない。

豆のことも忘れてはいけない。豆と言えば大豆。畑でとれる貴重なタンパク源で、もちろん味噌や豆腐の原料としていま以上に必需品であった。何反分もやったようだ。ところが豆を植えた直後(発芽時)はハトにやられるから(現代も同じ)、広い大豆畑のそばに茅かなんかで<見張り小屋>を作り、年寄り(現役を引退した80歳以上の)かワラシ(小さい子)がハトを日がな見張って、飛んでくると大声で追っぱらうわけである。小豆とじゃがいもも植え付ける。

■夏の百姓は草との戦い

夏の仕事は田の草取りと、馬に食わせる草刈り。それに春蒔いておいた麻を糸にする仕事。麻はもちろん衣服の材料として使う。日の長いこの時期、朝は3時に起きて、昼に少し昼寝休みを多めにとり、夜は暗くなってからも月夜の明かりで豆小豆の土寄せもして稼ぐ。最後に草刈り鎌を研いで一日の仕事が終わる。田に入っての草取りはいまも昔も大変である。暑いさなかに背中に草を背負ってやると、いくらか涼しいという話。花き栽培をやるようになったいまと比べ逆に夏場は余裕のある時期であった。きょうできねば、明日やれば良いのだし。

■秋の百姓はつるべ落とし

コンバインもバインダーも乾燥機もない時代、収穫は稲刈り鎌だけである。一株一株手で刈って、束ねた稲をはせに掛ける稲刈り作業。仕事は夜も月明かりで続けられる。乾燥した稲は茎葉を残したまま稲を入れる小屋に仕舞い、後日冬になってから、足踏み脱穀機で脱穀し、唐箕で選別(悪い米を飛ばす)、それを<ヒルス>という農具でもみ摺りし、水車の石臼でついて精米する。精米はだから<米をつく>と言う。

日暮れの早い秋だが、稲を刈る、はせ掛けする、小屋に運ぶという作業に追われ続ける。いまはコンバイン・乾燥機・選別機・もみ摺り機で3日の作業であるが…。現代では一秋・冬の作業時間を何百万の機械代金で買ったのである。コンバインの蓋を開けてみたことがあるが、足踏み脱穀機と同じドラムが入っていた。動力が変わっただけで脱穀の原理は変わっていなかった。選別やもみ摺りも同じであろう。

豆の収穫が、これがまた大変な作業だ。いまでもそうだが、刈った茎から鞘の中の豆を取り出すのには実に苦労させられる。昔は足踏み脱穀機でやり、いまは少量なのでシートの上に刈った茎を載せて鉄パイプやビール瓶で殴りつけ、実を出させるしかない。もちろん現代の大規模農家は専用のコンバインでやっていることだが。

■冬ごもりの百姓は家で稼ぐ

冷たいみぞれや雪も降ってくる11月ともなれば、雪囲いをして冬に備える準備に追われる。この頃が寒さが特に身にしみる時期のようだ。いまでもそうだが、いつ雪が降って農作業が終わってしまうかわからない状況で、短い日照を惜しむように秋仕舞いを進めるのだから、休憩しようという気も起こらない。

雪に覆われる厳冬期は、縄をない、米や炭を入れる俵を作る。馬に食わせるわらを切ったりもする。そして山に入って炭焼きをするのも冬場の仕事。いまではなくなってしまったが、炭焼き小屋と土で作った窯が山岸には随所にあったらしい。余談だが、こちらでは人が集まるとガレージや作業小屋で焼き肉をするが、必ず炭を使う。この炭火焼き肉はたぶん都会ではまねできないだろう。豊富な樹木に恵まれた沢内では炭焼きは貴重な現金収入になったという。

■百姓の衣食住

昔は肉は食べず、タンパクは豆以外には魚であったようだ。魚を買いに湯本温泉まで半日歩いて出かけたといわれる(湯本まで15キロ)。魚以外はすべて自給だ。県内(全国)でも屈指の山菜やきのこが食卓に上るのは言うまでもない。個人的にはシメジが一番好きだ。あの素晴らしい香り! マイタケは早すぎて農作業に追われているので、最後のシメジだけがかろうじて採りにいけるのである(私の場合)。イワナ(ザッコ)の宝庫でもあるが、それほど食べたわけではないという(雑っ魚だからか?)。

昔はトイレが家の外にあった。吹雪の夜なんか大変であったろう。また急に寒風に当たったりするのは脳血管に非常に悪かったと思う。さてトイレットペーパーのない時代、何を使用していたか。<ガクマ>という木の葉だ。山からとってきて乾燥させるのだが、決して日に当てて乾かしてはならない。パリッとなるからだ。トイレの中の日陰で静かに乾かさなくてはだめだ。現存する年寄りはガクマを使用した世代だが、それより昔になると…、ガクマではなく<縄>だそうである。のちに紙の時代になるが、新聞紙は使用しなかった。インクが付くからでなく、書き物で拭うなんて…という理由だと聞く。

以上でとりあえず終わりますが、今後新情報を聞きとめたら、忘れないうちにまめに更新する予定です。