山里音楽館

 

 

山里には音楽(クラシック)が良く似合う。偏った見方を承知で言えば、自然景観の見せる多様な階調が、楽曲や楽器の微妙なニュアンスやハーモニーと合っているということかも知れない。どうしたって、人工物に満ちた都会の方が景観として単調に違いない(1と0で構成されるデジタルの世界もまた単純なのであろう)。何より農村風景そのものが音楽的風情に満ちている。農業は決して頭を使わないものではないが、農作業の最中というのは、頭の中では音楽が鳴り響いていたりする。どんなに忙しくても、内面はあくまで自由なのだ。奥羽の山里に相応しい音楽にまつわる随想の断片を掲載します。


■ブルックナー  ▼大学生の頃はとにかくブルックナー一筋で、特に第8番には熱狂的に心酔したものである。松本市に住んでいたが、西には北アルプスが壁のように聳え、常念岳や蝶ケ岳、乗鞍を眺めながら4年間を過ごした。音楽タイムはほぼ夜だが、部屋を真っ暗にして南の窓に市内の夜景を見ながら聞いた8番は想い出深い一曲だ。「ブルックナー開始」もまた森林のざわめきのようだし、金管群の咆哮は見はるかす山岳そのものを彷佛させてくれる。人間のこまごました感情表現が問題ではなく、大地がのそのそと進行していくようなスケールの大きさ、それに濁りのない透明な音色が、何とも奥羽の山里的である。▼残念なことに、岩手県にブルックナーの演奏会は来ない。松本市のときも同じで、卒業後、東京に移住してまっ先に調べたのがブルックナーのコンサート情報であった。上野の文化会館で朝比奈・大阪フィルの8番を聞いたときには、懐かしい山岳都市松本の4年間が手に取るように感じられ、レコードで馴染んだまさに同じ音が、いまそこで発せられているのだという感慨に打ちのめされたものである。いつかまた生で聴ける機会があるだろうか。

■マーラー  ▼いまでこそマーラーを大いに聞くようになったが、ブルックナーに心酔していたとき、マーラーというのは主観的で、感傷的な音楽だなと決めつけていたものだ。しかし卒業後まもなく9番を初めて体験し、これは何という緊迫した鬼気迫る曲なんだろうと感じたのをよく覚えている。堰を切ったように溢れる感情の爆発も、カタストロフも、打ちのめされた感じ、も、音楽が避けてはいけない表現領域なのであろう。ここでは、最高のクライマックスの強奏の瞬間が、盛り上がりの頂点の瞬間なのでなく、破壊・壊滅的瞬間なのである。逆にブルックナーにおけるクライマックスというのは、壊滅でなく、解放の瞬間のようだ。▼マーラーの辞世の言葉は「モーツァルト!」だったと言われるが、9番の最終楽章の最後の4つの音は、不思議なことに「ジュピター」の最後の楽章の冒頭の4音と同一のように聞こえる。完成された最後の交響曲の最後の音がモーツァルトの最後の交響曲に通じているとしたら興味深いことである。そうした最終的境地が最後の言葉として語られた、としたら…。純粋で透明な美感がサウンドに満ちている点、モーツァルトとマーラーは似た精神を有している。▼生前指揮者として一斉を風靡したマーラーだが、ベルリオーズの「幻想交響曲」を好んで振ったそうである。「幻想」のわくわくした感じが私も大好きだが、良く聞くとマーラー自身の曲が「幻想」に影響を受けているなということがわかる。

■ベートーヴェン  ▼ベートーヴェンの「田園」は指揮のテンポが取りにくいと言うのは指揮者マーラーの弁だが、確かに複雑なリズムで構成されている。高校生の頃はよく聞いたが、さすがに大人になってからは交響曲は滅多に聞かなくなった。交響曲では「エロイカ」と並んで「9番」が好きだが、フルトヴェングラーとバイロイトのライブは忘れられない。1楽章では、ゾクッと身震いがする出だし(「空虚から鳴り響いてくるように」との指揮者の表現が伝えられる)、それに後半の機関銃のように連打されるティンパニ、3楽章のトランペットの強奏のあとのホルンの悲しい調べ、終楽章のコーダの最後の音がずれているところ、など、強烈な想い出が強く残っている。▼最近でもずっと聞き続けているのは、ピアノソナタの最後の3曲である。特に最後のハ短調のソナタの2楽章は自由なリズムと宇宙的な広がりが凄い曲だ。▼大学の頃、ロマン=ロランに傾倒したが、ベートーヴェンの伝記はいまでも自分の奥に深く居座っている。そして記憶に鮮烈な1枚の写真、ボンのベートーヴェンの生家。このうす暗い古びた部屋であの楽聖が生まれたのだと、衝撃を受けた。忘れられない写真である。