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年末年始の長野から

年末年始はテングサの煮込みが3日休止となり、31、1日と出かけて来ました。1月1日の富士山は清里の辺りになりますが、八ヶ岳中腹にある美し森展望台という場所にて撮影しました(展望台へは駐車場から徒歩10分くらい)。

 

振り返ってその展望台から八ヶ岳を見るとこのような感じです。小海線沿いの南側から見た方が荒々しい姿は見られるので期待したのですが、真ん中の低い山がちょっと邪魔してますね。

年末の大晦日に赤岳登山をしましたが、30年も前ですが、小屋に荷物を下ろして山頂へ出かけた際にホワイトアウトで道に迷い、結構道も逸れたようで、ああ、これまでなのか、と思った時に、スッと一瞬前方の雲が取れ、山頂のピークを表す柱が見えました。一瞬なので他所を向いていたら見えなかったでしょう。それはすぐ雲に隠れましたが、その方向へまっすぐ歩いて無事山頂へ着きました。一瞬姿を見せた時、柱が十字架のように見えました。まだ生きていろとの啓示のように思いました。その夜山小屋のふとんの中で顎が痒くなり掻いているとボロボロ皮膚が剥がれてきて、凍傷になったんだとわかりました。正月明けの出勤時(出版社勤務の時代です)にはまだ黒い顎のままでした。。遠い昔の八ヶ岳の思い出です。

 

年末の庭仕事の風景、いわゆる天出しの作業です。私がモロブタに天を注いでそれを包丁で切り、運搬車で現地に運んだものを庭仕事の人たちが受け取って箱を配置し、カイリョウと呼ばれる台に並べていきます。

 

2週間ほど外で凍る溶けるを繰り返した天は「すどり」と言いますが、左の大型ザルに取り集めてハウスの棚で最終乾燥させて寒天が完成します。

 

29日の天出しで釜は休みに入り翌30日は草洗いなど水車の仕事をし、仕事納めとなりました。そしてその夜は忘年会ということで、庭仕事の人たちと一緒にお好み焼きを作り、長野の人たちに広島のソウルフードを伝授しました。いまは全国どこでもソース含め材料が揃います。特に小さいお子さんのいる家庭では、ホットプレートを囲んでお父さんが腕を振るう。うけること間違いなしですね。

 

山下清の美術館がすぐ近くにあり最近知りまして、31日に出かけて来ました。いいですね。貼り絵。身近な素材で生活感もあって、また長野にも縁があったんですね。カレンダーを買って、ポストカードもプレゼントにもらって来ました。末娘への土産です。

 

続いて諏訪の片倉館へ行きました。午前だし風呂は別に大丈夫でしたので400円払って中を見学しました。

遥か昔ですが信州大学に合格が決まった時にすぐに信州の旅行のガイドブックを買い、そこにあった片倉館の画像がずっと残っていまして、訪ねてみた次第です。が、建物の中は特にどうということもなく、建物の外観の写真だけで十分でしたかね。もちろん大多数の人は千人風呂に入りに訪れます。

旅行ガイドブックの表紙にあった安曇野の碌山美術館も頭の隅にこびりついていた画像でしたが、ここも既に寒天出張2年目の時の帰りに立ち寄っています。

 

片倉館の中に入ったから案内表示で気づいたのですが、守り熊という彫り物が外壁に施されていて、面白かったですね。

 

その後には塩尻を経由して、木曽の入り口である奈良井宿に出かけて来ました。妻籠も馬籠も行っておりますが、それらより建物の並ぶ街並みの距離はこちらが長い気がしました。岩手にはあまりないストリートでしょうかね。旅行者気分を味わって来ました。雨で寒かったですが。。

 

さて、この奈良井宿の中で事前にスマホで調べた際に気になっていたマリア地蔵を探し、ちょっとわかりにくかったですが、見つけることができました。なぜかこのような古い像には惹かれるんですね。岩手にもマリア観音像があります。旅行者たちには全く関心を持たれていないようでしたが。。

 

見つかった時には既に首はなかったようです。抱かれた赤子の手に持つものの先端が十字になっていることから、マリア像ではないかと言われ、ここ山深い木曽の地にも隠れキリシタンの信仰の姿があったことに感慨深いものを覚えました。キリシタン自身の手では首を落とすことはできなかったのではないでしょうか。全くの事故かもしれませんし、意図があった行為だったかもしれません。

これで大晦日の旅は終えて、木曽と伊那を結ぶ権兵衛トンネルで伊那に出て高遠経由で杖突峠を通って夕方4時には寒天宿舎に着いていました。遠いドライブに見えて岩手よりは狭いのかと感じました。

翌1月1日には八ヶ岳に中腹を清里方面へドライブして富士山も眺め午後1時には帰って来ていましたが、廃村になった稗之底古村址も途中探索していて、これについてはまた改めて投稿します。

大変な勤務である寒天煮込み作業もまだ中盤に差しかかったばかりで2/5くらいです。こちらでは少量の米の出荷しかできない不完全な農家ですが、2月上旬には岩手に戻ります。今年も何卒宜しくお願いいたします。

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信州茅野で寒天作業に従事

岩手から長野へ出張しています。7回目となった寒天製造のため茅野市に滞在し、テングサの煮込みと濾過、濾液の箱(モロブタ)への注入と包丁による切断が自分の作業工程です。

野外に出した天は夜に凍らないとダメになってしまうため、気温が高い状態の時は煮込みを休止します。

15日はそういう日で、それで松本に出かけて来ました。大学時代から慣れ親しんだ近郊の美鈴湖まで足を伸ばして来ました。美鈴湖の向こうは常念・蝶ヶ岳です。

 

懐かしい北アルプスの景色は変わることなく、そして見る立ち位置により微妙に異なった姿を表してくれます。平野部からはそれなりに、視座が高まれば山懐も深く重厚に。

 

一方、こちらはその数日前にやはり釜が休止になり出かけた、近くの蓼科高原から見た八ヶ岳。まだ雪はほんどありません。

 

寒天を作るにはそれなりの準備作業が必要です。私の場合、北国で積雪のため早く農業のシーズンが終わることと、釜の作業で煮込み終了とともに帰宅することから、庭の作業準備段階から長野入りし働いていて、釜が終われば帰りますが、外作業(庭と呼びますが)の人たちは、最後に出した天の完成と、そして庭の片付け作業を引き続き行って、私より3週間くらい後まで稼ぎます。

最初は田に藁を敷くことからスタートします。そこにトカシという天の載る台木を運んでいます。

 

杭を打ってその上に木を乗せて縛り、天の載るカイリョウを積んで準備完了です。この長木は稲のハセ掛けに使う杉の棒です。

あとは、乾燥して軽くなった天が風で飛んで行かないよう防風ネットを張り巡らせて完了です。

 

釜の方もいろいろ準備があります。10か月使っていなかった釜は水を入れても漏れるので、少しずつ水を入れバーナーで沸かし沸騰させ蒸気の力で桶の木を膨らませて漏らないように釜を仕込んでいかなくてはなりません。

 

こちらは煮汁を濾す舟の下、濾過された液(ノリ)が溜まる部分です。上に写る柱の上に舟が乗っています。舟も終了時には降ろして洗い、そして開始時のいま上に上げます。総勢で8人くらいで担ぎ上げる作業です。

 

12月15日、松本でふとパルコを見つけました。地元ニュースで閉店が報道されています。私が大学で松本にいた時にオープンし、何を買うわけじゃないけど出かけてみた記憶があります。その40年後に閉店ですね。

確かディズニーランドもこの大学4年間にオープンしました。ニュースで当時見たのは覚えてますが、全く興味がありませんでした。ビデオ等でディズニー作品に親しんだ世代でもないし、ただ、後に子育ての中で自分も結構夢中で調べたりし、実際3度行きましたが。。

 

松本に着いて最初に市の美術館に行きました。駐車場も十分で助かりました。向かいにある芸術館で信州大学オーケストラのマーラー巨人を聴いた時から、この美術館は目に付いていました。

 

2009年に30歳というあまりにも若くして病気で亡くなった、長野県にもゆかりのある画家須藤康花さんの展示を観て来ました。ゆかりがあるというのはそのお父さんが長野県麻績村で自然農業を開始されたことによる移住のようで、おそらく定年後なんでしょう。それまでは大学で教鞭を取られた方のようでした。娘の死後いくつかの刊行物も手がけられ、そして松本に須藤康花美術館を開館されました。次回、今回の松本市美術館での展示が終わった後に、そちらの方も行ってみたいと思います。

 

絵とともに展示された詩の数々は、創作芸術というようなものではなく心の中から溢れ出た生々しい現実と思います。その文章と絵とが合わさって、心を揺さぶられます。通常の美術作品鑑賞とは異なった感動がありました。

メメントモリとかよく言われますが、芸術は死というものを意識した創作であるべき、と言った理解ができるかもしれませんが、この方はそんな生やさしい「世界観」とかではないと感じました。そもそも「概念」などではなく、病魔と戦う苦しい現実そのものの救いや解放の模索が絵を描くという行為だったと思います。ベートーヴェンの感じた苦痛に通ずると思いましたが、ベートーヴェンの絵もありました。本を入手したので、帰った後ゆっくり読みたいと思います。

 

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長野からのゆっくり旅〜合掌造りの山里と佐渡の探訪

相倉集落合掌造り

恒例になっています冬期の長野県諏訪地方への寒天造りは今年は期間が短く、早めに釜の煮込みも終了したことから、めったにない機会ですし、少し寄り道をしてたっぷりと帰郷の旅路を楽しみました。普段の岩手からの行き帰りでわざわざ大回りをすることはないのですが、大体のコースは通行して来ましたし、今回は木曽から岐阜へ出て、高山から白川郷方面へと向かうことにしました。上は白川郷を見た後に、たまたま案内標識で見て立ち寄った「相倉(あいのくら)合掌造り集落」で、白川郷以上にすばらしい、この冬の一番の絶景フォトを撮ることができました。雪の山道を10分くらい登っての観測ポイントからの眺めは感動的で、日曜日でもあり観光客も結構いましたが、みんな感嘆の声を上げていました。あまりに美しく、大きいフォトもリンクで掲載しておきます。

相倉集落2なぜこのような光景に惹かれるんでしょうか。外国の童話の挿絵等でも見たことがあるような、田舎集落と背後に高い雪山の取り合わせ。世界に通ずるいわばやはり原風景で、心の底でえもいわれぬ何ものかに掻き立てられる感情でしょうか。。住みたいですよね。でも実際住めば、えもいわれぬ気持ちはなくなる気もします。

背後の山は白山と思います。岐阜へ入った時、白山は見たいと思いつつも、なかなかその全貌を眺める場所に恵まれず、高山から白川郷へ至る山道も谷間の庄川という川沿いを通るために眺望はそれほどよく得られません。河童橋から穂高を眺めるようには、白山は姿を現してくれませんでした。

それにしても高山から白川へ向かう国道は、往来も少なく、おそらくみんな高速を通るのでしょう。完全な雪道でしたので4駆をかけ、慎重に走りますが、荷台にテングサの煮カスを100kgくらい積んでいたので少し安定感はあったかもです。それにしても対向車が少ない。車と出会わない。12月31日の長野・愛知・静岡の県境付近の天竜川の感じです。もしかしてあと少しで白川郷というところで冬期閉鎖になっているとか?? そんな不安もよぎりました。それほど山奥の道でした。

あるいは高速を走っていたらもしかして白山は見えたのでしょうか? しかし上の相倉集落の背景にある山はどうやら白山の一部のようですので、少し安心しました。ちなみに、東京で勤務していた出版社のあった土地が文京区白山でした。それで白山の言葉により惹かれるものを感じていたのかもしれません。

 

帰雲城址

この庄川沿いに走る道路脇に、沈んだ城の跡というような案内があり、車を停めました。一見遠目に西洋の修道士かのように見えた石像に惹かれ、近づいて眺めましたが、雪でほとんど何があるかわかりません。帰雲城(かえりくもじょう)という城が昔あり、ここで沈んだということですが、家に帰って調べてみると、1585年に東海や北陸を襲った大地震により崩落した土砂に埋もれてしまったという記載がありました。こんな山奥にもお城があったのですね。

 

白川郷

そして、道路の閉鎖に見舞われることもなく、突然に人々が往来する世界文化遺産の白川郷に着きました。外国人だらけです。外人にとってはこのクラスの雪も茅葺きの建物もさぞ珍しいことでしょうね。東南アジア系の人が多く、また少数ですが欧米系の人の歩いて移動している光景が割と目につきました。バックパッカーとまではいかないかもしれませんが、欧米系は個人の客で、アジア系は団体客という感じでしたか。駐車料が1,000円かかりました。人が多くてマスクしますが、眼鏡が曇ります。。

 

白川郷合掌造り屋根裏

有料で見学できるエリアに立ち寄って、合掌造りの中に入ってみました。私は沢内へ移り住んだ2年目に、住んでいる屋根の葺き替えを手伝ったことがあります。こうした屋根裏に上がって、カヤ葺きの人が外側から刺してくる紐付きの大きな針を中に押し入れて、写っているように丸い骨組み棒に紐を通して、もう一度その針を抜いてもらい、骨組みどうしではなく外と中でカヤを挟んで紐で縫うという作業を行いました。

 

合掌造りのき

軒下を見上げるとはこんな作りになっています。建物の中には昔の農具や生活具が展示されていたりしましたが、これは11月に岩手の川井でも見ましたし、そんなに珍しくもない感じでしたが、外国人にとっては興味深いものだったでしょう。「カンテラ」など実際どうなんだっけという品は写真に収めて来ました。

この白川郷はあまりにも有名ですが、でも景観としては「相倉」ですね!

 

木曽白川の氷柱群

相倉集落の光景が印象的だったためにトップに記させていただきましたが、順序としては、茅野の寒天工場を発った日は杖突き峠から伊那に入り、権兵衛トンネルから木曽へ抜けて、木曽福島の辺りの山道をフラフラしました。

釜の煮込み作業は夜の11:30から始まり、クレーンでの舟への煮汁移し、濾過した煮汁のノリツギ作業、固まった液の天切り作業、次の草の釜入れ作業を終えて13時過ぎから16時のエアかき混ぜ(棒立て作業)まで2時間ちょっと休憩があり、ここで風呂に入ったりしますが、ちょうどこの時間に長野SBCのローカル番組をテレビで観ていました。そこで確か紹介されていた氷柱群が木曽にあるということで、今回目指しました。ちょっとわかりにくくて通り過ぎたりしましたが、写真の「白川の氷柱群」がそれでした。写真に収めているのは一部で、高さ50m、幅250mに及ぶと記されていましたが、今年はそこまでにはなっていないようでした。地下水が染み出してツララになっているものです。御嶽山の近くまで進みましたが、雲に隠れて見えませんでした。

 

寝覚めの床

木曽といえば「寝覚めの床」ですので、これも掲載いたします。国道からだと線路とかが邪魔ですよね。学生時代に「特急しなの」で通行した時は眼前でよく見え、列車のスピードも落としてくれて案内アナウンスもしてくれました。車掌さんによっては「木曽のナカノリさん〜」と歌ってくれたものでした。いまでもそういうアナウンスはあるのでしょうか。。

3年くらい前にもここを訪れて記事にも書いたと思いますが、名古屋から特急で木曽の山を懸命に登り進み、そして松本のある穏やかな平野部に至ります。遠くには神々しい北アルプスが。。ブルックナーの九番の最終楽章の最後の部分がそうなんですね。激しいトゥッティ(全ての楽器が全力で奏でるクライマックス部)の後に、ふっと突然に天上の光景が拓けて、静かに終わります。アダージョで終わる九番ならではの全曲の締めくくりです。

西和賀沢内もそうですね。北上市から激しい山間部を通り抜け、山間部の盆地平野部に、ふっと至る。ブルックナー的です。

馬籠宿

木曽からは馬籠宿へ向かいました。以前、まだ釜煮込みでなく水車の仕事(テングサを洗う仕事)をしていた時の1日休みがあった折に「妻籠」には行っておりましたので、今回は馬籠に行きました。妻籠とともに、高校の時の修学旅行で来ているはずなんですが、全く記憶にありません。。

 

富山湾岩瀬浜

さて木曽の翌日の、合掌造りの里を満喫した後ですが、富山湾へ向かいました。昔NHK特集で富山湾についての番組があり、内容は忘れていますが蜃気楼だったり、いろんな生態的なこととか、背後に北アルプスが聳えていたり、気になっていた場所でした。ちょうど寒天工場に富山にゆかりがある人がいて話を聞いているうちに、こちら方面へ遠回りして寄ってから帰ろうと決めてました。いつも赴任の最初の頃からもう帰りのコースを検討し始めるのですが、頭の中で合掌造りとセットコースになっております。午後3時頃に岩瀬浜海水浴場に到着し、砂浜からの景色を楽しんでおりました。

が、いきなりのアクシデントが。。海水を触っていて、急に潮が大きくなったので靴を濡らすまいと後ずさりをしたところ、その波が結構大きくて、思わずダッシュし転んで左手を着いた時に結構な衝撃が。。靴は濡れはしませんでしたが、手首は3日経ったいまでもまだ痛く、けっこうな打撲を負ってしまいました。この後富山市内に戻ってガラスの美術館を見て白えびの天丼を食べてから宿泊地である上越市へ向かおうと思っていましたが、すぐに運転ができる状態でもなく、少し仮眠してしまい、それから次の上越市の宿へ向かうことにしました。白えびが課題に残りました。

軽トラなので、当然マニュアル車ですが、左手が痛いです。市街地は信号や渋滞で特にギアの入れ替えが多く、困ったと思いました。結局右手を左に回して2速に入れて発進し、次は4速に入れる、という2段階で何とかこなしました。国道8号とかを新潟方面へ向かい走るわけですが、時々5速まで入れるものの、2・4速式で何とかなりました。それにしても、富山市から上越市までは結構距離がありました。暗がりの中すぐ海が見える道を走りますが、昼間だったらもっと海がよく眺められたことでしょう。

夜に出張先の土地を走っていると寂しくなるということを前回も書いたのですが、2回目の寒天赴任で長野入りした時に、岩手を発ちこの上越市で1泊する行程を取りましたが、暗くなってから海が見えて来た時に、初めて何とも言えぬ寂しさを感じました。今回はもう自宅への帰路行程に入っいるし、そんな寂しさはありません。手首の痛さがあるだけです。

 

佐渡へ入港

上越市内のスーパーで閉店間際の値引き惣菜やビールを買い込んで、軽く晩酌後早々に眠りに就いて、そして翌日は新潟港を目指し早めに出発し、生まれて初めての佐渡渡航を実現しました。

昨夜は暗くて海がよく見えなかったものの、上越から新潟市への海沿いの道で十分に海辺の風景を楽しむことができました。海辺には板張りの住宅が建ち並んでいて、独特の景観を醸していましたし、佐渡に入ってからもでしたが、新潟には竹が多くあるなと思いました。

少しでも安く渡航費用を抑えたいといろいろ検索し、アプリを入れたりいろいろやった結果、ただでさえ足りないギガを消費して、オーバーしたギガ分を回収できたかどうかというくらいの割引率でチケットを入手し、佐渡に渡りました。新潟市からは佐渡は見えませんでした。霞んでいて見えないのか、それとも地球が丸いために見えないのかわかりませんが、フェリーは2時間半の航路で、あと30分くらいという時の佐渡の光景が上の写真です。

フェリーですが、車を積むとうんと高くなるので、新潟港に停めて単身で渡りました。2等席ですが片道3,100円くらいでした。新潟佐渡汽船すぐそばの万代駐車場Eに停め、24時間以内でしたので、翌日800円の料金ですみました(乗船した人の割引価格です)。ちなみに軽自動車でも往復で30,000円かかるようです(運転手1人乗船料金込み)。

 

トキの剥製

船は東側の両津という港に停まりますが、宿を取ったのは小1時間バスで走っての西側の温泉旅館でしたので、バス代が往復かかります。しかも帰りの方は、時刻の少し前に別の方面行きのバスが来るから注意してと旅館で言われたにも関わらず、よく行き先を確かめず、時間的にこれだと思って間違えたバスに乗ってしまい、違和感を感じて運転手さんに確認して2個先のバス停で降りて乗り直すというミスも。。行きは港で少しバスが停車してたので確認できましたが。。乗り慣れていないせいか、どうもバスは苦手です。料金が刻々と変わり、スムーズに支払って降りられるかも気になってしまいますよね。定期券ではないし。

温泉宿のすぐ近くに博物館があったので、午後4時を過ぎていましたが、まずこちらを見学しました。佐渡といえば、1)トキ、2)金山、3)伝統芸能(太鼓や能など)でしょうか。博物館でしたので縄文や弥生の出土品や生き物の剥製などが多かったですが、まあまあ満足。車じゃないのでトキの住む森にも世界遺産が決まったという金山にも行けませんでした。佐渡は結構広く、グーグルマップとかでコンビニが近いなとか思っても経路を見れば歩いて40分とかで、足がないと何もできないだろう感じです。

翌日の旅館からの帰りは、バス下車から出航まで時間があったので両津の港を少し歩く余裕がありましたが、レンタカーがあるじゃないですか。そういえばレンタカーを生まれてこのかた借りたことがありません。いつか、多分その時はもうないでしょうが、再び佐渡に来れた時はレンタカーを借りれば良いんですね。軽だと1日5千円切る感じでした。今回バスは往復で1,500円くらいでした。

砂金採りの道具佐渡金山には行けませんでしたし、博物館にもあまり見たかった展示はありませんでしたが、砂金を取るための道具が陳列してありました。ちなみに、今回の旅で、絵画にせよ展示品にせよ、案内看板にせよ、説明があるとそれは写真を撮るようにしていました。WiFiのない寒天工場にいて無駄にギガは使えないし、夕方5時のおやすみ前のひとときとか、旅先でスマホで撮った写真をその説明書きとともに見返していました。引き伸ばして見れば十分読めますよね。

 

 

 

 

 

 

佐渡文化・鬼太鼓

佐渡にはいろんな演芸の文化が栄えていたとは知りませんでした。太鼓が盛んなのは何となく知っていましたが、鬼太鼓というジャンルになるらしいです。岩手にも鬼の文化というのがありますが、さらにまた能とかも盛んで、能楽堂も結構数あるらしいです。

ブリカツ

小1時間博物館にいて、それから隣の温泉旅館に移り、ゆっくり温泉に入って寒天煮込みの積み重なった疲れと、手首の打撲をたっぷり癒しました。ぬるっとした効能ありそうな温泉でしたね。一人だし素泊まりですので、売店の適当な食べ物と、フェリーの中で買った「ブリカツ」やスーパーの千切りキャベツで晩酌としました。バスなので道中下車して買い物もできずです。居酒屋も館内にはありましたが、温泉から出て出歩く気力も予算もないし、売店のビールと茅野で買っていた五一ワインの大瓶も味わって、のんびりテレビを見て極楽でしたね。何より、もう夜の11時20分に起きなくて良いのです。佐渡だけで使えるという2千円の商品券がもらえたのもラッキーでした。

 

ときわ丸

両津港からフェリーで帰路に着きました。立派な船でした。佐渡の土産として、娘にはトキのキーホルダーのようなものとかマグネットを買ったりしましたが、佐渡土産ナンバーワンは佐渡バターのクッキー(800円)のようで、買いました。

 

佐渡からの別れ

佐渡見えず

 

 

 

 

カモメに見送られながら、佐渡が離れて行きます。しばらくすると何も見えなくなってしまい、雲のせいか地球が丸いせいなのか。。

新潟からは小国・山形を経て自宅に戻りました。カツ丼(ふつうに卵でとじたもの)が無性に食べたくなり、いつも旅の時はそうですが、チェーン店とかでなく大衆食堂を探して入りました。

また途中小国の道の駅で買ったラフランス入り午後の紅茶は美味しかったです。

疲れていますし、まだ手首も痛い。少し何もできずゆっくり休養し、夜は念願の晩酌しながらWiFiでPC映画を観る、で過ごし、それからたらの芽作業や確定申告等事務作業に着手します。とりあえず、スマホの写真をMacに移送し年賀状に目を通したり、どっさりの郵便物を開封したりしています。

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寒天休日の長野旅、その2

御射鹿池1

今年の寒天事業は規模の縮小があり、年末年始以外にも3日間の休日があって、部屋でじっとしていてももったいないので、1月12日、近郊の蓼科付近をドライブしてみました。蓼科の御射鹿池は東山魁夷の有名な絵のモデルになった、静謐なたたずまいの池でした。ちょうどいい感じの結氷で美しく、真冬にも関わらずカメラを向ける人もおりました。

 

御射鹿池2

蓼科にはグランドホテル「滝の湯」という昔からのホテルがあり、信州大学1年生の夏休みに長期アルバイトをしました。バイト仲間とも仲良くなって、よく部屋による集まって談笑したものでした。八ヶ岳自体も大学卒業後ですが東京から登山に何度か来ており、寒天作業場のある茅野市はその玄関口であり、この冬季出張はそうした過去の縁もあって続いている気がします。この日「滝の湯」も訪れましたが、休館でした。。

温泉施設や別荘地のある蓼科の山麓そのものの地帯はそんなに歩いているわけでなく、もちろん有名なこの池も初めての来訪でした。目は常に山頂の方へ向いていましたので。麦草峠は冬季閉鎖と知っていましたが、こちらも行けるところまで軽トラで走って来ました。

 

乙女滝とカモシカ

近くに乙女の滝という滝があり、足を伸ばしました。カモシカの子どもが左の方におります。蓼科は日本を代表するリゾート地の一つともいえ、観光客も特に夏場のシーズンはとても多いことでしょう。そうした人たちを対象にした直販型の農家も多くいることと思います。ただ冬場は休んでいるところもあり、そういう姿には少し残念な、寂れた感みたいなものを感じてしまいますね。スキー場とかは賑わっているんでしょうが。。

 

槍穂・霧ヶ峰

そして、蓼科に来たからには、やはり霧ヶ峰方面に足を伸ばしたくなって来ます。去年も岩手への帰り道で八ヶ岳を横断し佐久方面へ抜ける際に通ったので、寒天の折だけで3回目になります。蓼科山麓から白樺湖経由で30分もかからないでしょうか。茅野市街地からも小一時間で行ける場所です。この霧ヶ峰から良い地下水が茅野方面へ巡り流れて来て、良い寒天作りの基盤になっているとのことです。

 

鹿島槍

さて、休日2日目の翌日は大町方面へ出かけて来ました。本当は松本の少し先の安曇野の美術館を目的に走ったのですが、行ってみると冬季閉館中で、昨年の寒天で長野入りした時に出かけてちょうど閉館日だったことのリベンジに大町まで向かったのでしたが、それほど遠くという感じではありませんでした。大町山岳博物館からの、これは鹿島槍ヶ岳でしょうか。前面に壁のごとく立ちはだかっています。正月もでしたが、好天が続き、ドライブには最適でした。

ちなみに、かつて松本市内にあって学生からも好評だったスパゲティ屋さんがその美術館の近くにあり、お昼時に行ってみたものの、こちらも閉店中。。松本駅前から別荘地的な林間の土地に移転していて、リゾート客向けの経営に転換してのことなのかと思うと、何となく残念な気持ちでした。

 

山岳博物館には畦地梅太郎の絵が2点飾られていました。「黒部の山賊」の表紙にも使われた、実に味わいのある絵ですね。

 

大町博物館の雷鳥

この博物館では庭で雷鳥やカモシカが飼育されています。こちらは日本の雷鳥ですが、スバールバル雷鳥という北欧の雷鳥もいました。

そして博物館を去り、夕方茅野への帰路に着きます。正月のドライブでも感じたことですが、暗くなってくると、やはり少し憂鬱になってくるんですね。お前はどこに向かって帰っているのだ、という根無し草的状態。たった2か月といっても結構長いです。こちらでりんどう出荷している頃の2か月はあっという間ですけどね。地元で冬に除雪勤務している人も、除雪のこの3か月間はとても長く感じると言っていました。家で夜過ごす地元の勤務でも確かにそう感じます。ましてや600kmも離れた土地ですから。

とはいえ寒天作業は独特な伝統工芸的な面もあり、天日干しで乾燥させて産品を作る面はうちの農業とも大きく通じます。いつまでこの産業自体が成り立っているか不明でもありますが、機械的な工場生産品とは違った職人的作業であることは確かです。学生時代を過ごした、第2の故郷である長野はその後の東京時代よりも自分には近いものがありますし、割り切って旅行の楽しみも単純に受け入れながら、続けていけばよろしいのでしょうかね。この出張の一番の楽しみは行き帰りの道中の旅路ですね。それに今年は近郊のドライブが随分加わりました。

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長野の年末年始から

1月1日の富士山

珍しく年末年始が休止になった寒天工場です。初めての滅多にない機会なので、いろいろ出かけて来ました。茅野市のお隣の原村と富士見町の境界辺り、寒天作業場より車で20分弱の所で富士山を見ることが出来ました。天気も良く1月1日の富士山です。

正月の天

天出しされた寒天も順調に進んでいます。

木曽駒

大晦日の31日も休みとなり、釜の湯を沸かしたり若干の作業はありましたが、早々に終えて、そして信州ドライブに出かけて来ました。

長野県は言うなれば東北よりは都会でありますので、茅野市もですし松本、長野など人が多いです。車の往来も多くて渋滞に巻き込まれますので、割とのんびりしていて自分の好みでもある伊那谷の方面を走りました。最初は高遠から南アルプスに沿って走る山道の国道を進んでましたが、冬期の閉鎖ということで谷底を走るメインルートに変更し、伊那から飯田方面へ向かいました。天気が良くて駒ヶ根で少し中央アルプス側へ逸れて、木曽駒ヶ岳を撮影して来ました。千畳敷カールで有名ですね。

それから、30年近くも前に、伊那谷での就農移住を試みて、現在は飯田市に合併された当時の上村を訪ねました。今回の目標地点になります。ここに「下栗」という地区があり、かなり奥地の急峻な地形の土地に集落があります。何年か前にこちらのローカルの番組で放送されていたのを覚えていまして、今回訪れてみました。

国道から狭い舗装路をゆっくり上って行きます。命の水という湧き水で小休止し、車で行ける最終地点まで進みました。

さらに、駐車場から歩いて20分、その下栗の里が見下ろせる地点に到着です。確かに惹かれますよね。こういう山暮らし。当時上村の役場にも訪れて、就農の希望など職員さんに伝えて対応していただいて来ましたが、1995年頃はオウム事件もあり、この南アルプスの村も無縁でなくて、住民も他地域からの移住者という者に警戒感を抱いているというムードで、結局就農の話には進みませんでした。

ともあれ、ここまで奥地の急峻な土地では農業というのはなかなか難しかったでしょう。

でもいまでも何かしら後ろ髪を引かれる感じは少しありますね。

光岳

その下栗から見た光岳方面です。この山なみから受ける感動は、先の木曽駒などの比ではありません。北アルプスでは雲の平が最奥の地であるとすれば、南アルプスではこの山域が最深部になるでしょう。どこから入山しても下山まで3〜4日かかる奥深い山域。この光岳(てかりだけ)は東京にいた頃からずっと気に掛かっており、この夏もラジオの「山カフェ」でかつてのおしん役の小林綾子さんが登頂した話をしていた放送をしっかり聴いていて、羨ましく思ったものでした。

さて麓の方へ降りて来て、長野県最南端の天龍村へ。最近見た番組(ローカル)で、ここは柚子の栽培が盛んと言っており、写しました。良い感じの田舎ですよね。伊那谷の最奥部、満足度満点ですよ。あったかいんでしょうね。お茶も植わっています。

何かしら特産品を買って帰りたかったのですが、道の駅もことごとく閉まっていますし、開いている食堂もなくはないですが、一人でコロナ禍にわざわざ、とも思いパン等を買って天竜川沿いで食べました。

さて、軽トラックの旅はさらに深みに入って行きます。天竜川を下流に進んで行きますが、もうすれ違う車両もありません。長野と静岡と愛知の3県の交わる辺り、実に深いです。ガソリンもメモリが2個になり不安もよぎりましたが、飯田線の「大嵐」(おおぞれ)駅を今回の最終目標に、人っ子一人いない狭いカーブの続く道を、ただ訳もなくひたすら走行します。

実は東京に住んでいた時に確か年末にバイク(XLR250)で浜松から天竜川を上るツーリングをしました。その時に大嵐駅の辺りでテントを張って寝たような記憶が。。すぐそばにはスナックがあり、そこで生まれて初めて一人で酒場に入った記憶が。。駅のそば、テント脇で水道の蛇口を見つけ顔を洗い、そこで持参したシェエラカップを忘れてきたような記憶が。。

大嵐駅

でも大嵐駅は他に建物など何一つない場所にポツンと建っていました。全部思い違いだったのでしょうか。。いったい自分はどこの駅で野営したのだろうか?

飯田線はいったい誰が利用するのだろうと、線路とは対岸の道を元の長野方面へ戻りました。他に別のルートはなく、戻るしかない。

給油を気にしながら、対岸を見ると山あいに集落が。いやあ、本当に奥の奥に人が暮らしているんだ。。先の下栗を思い出します。

幸いガス欠になることもなく、阿南町まで戻って給油。長野県はガソリンが高いです。あとは飯田市、伊那市と戻って、高遠から杖突峠を経て茅野に戻りました。

明日2日も休みで、また出かけてみようと思っています。

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岩手に戻り農家再開しました

霧ヶ峰から北アルプスを遠望

2月10日夜からの最後の寒天(テングサの)煮込みが始まり11日の午前10時を持って庭への天出し作業が終わりました。そしてその日中と翌12日に片づけを終えて、寒天出張は無事完了しました。外で寒天を完成させていく庭仕事の人たちはまだ2週間くらい仕事は続きますが、煮込みを主体とした釜の仕事である私は区切りが付いて、13日の朝に工房のある茅野市を発ち、岩手へと向かいました。

今回は途中の1泊を会津若松にしましたが、佐久・高崎・日光経由のルートを取ったため、八ヶ岳を横断する必要もあり、まずは霧ヶ峰への登頂からのスタートでした。とはいえ茅野市から30分で着いてしまう近さなんですが。。

初めて寒天仕事に従事した年の2018年1月下旬にもこちらにはドライブで来ております(ブログの霧ヶ峰探訪記)。4年ぶりの今年は2月10日の積雪で雪は多めでした。雲が多めで写真としては晴れた2018年の時の方が少し綺麗でしたね。本当は大キレットを撮りたかったのですが、霧ヶ峰からはその全貌は見えないようで残念でした。2018年1月19日に来た時の良好な写真でお示しします(↓)。

 

大キレット

大キレットにこだわるのは、信州大学の松本にいた20歳前後の頃から、ここにずっと畏怖の念というかぞっとする恐怖心みたいなものを覚え続けていたからです。ここを越えないと槍と穂高を縦断することはできまでん。ついに槍穂の縦走の機会はなくて大キレットを通過することはなさそうですが、ここ霧ヶ峰の高さまで登っても大キレットの深淵部は見えません(蝶ヶ岳が遮っているのですが)。人は研鑽を積み高みに登れば登るほど、深淵部の深みを初めて見ることができる地位に至ります。それは松本のような都市部から簡単に全貌を表すものではありません。かつて常念岳に登った時は眼前に見えたはずですけどね。こういう考えにヘーゲルの「精神現象学」の絶対的に知ることへの高みへ至る「経験」の歩みを重ねて捉えていたものでした。高みへ登るということは足元の地盤の深みを自覚することでもあり。。

 

霧ヶ峰から富士山を遠望

こちらは富士山が見えるところでのワンショットです。右の方は南アルプスということですね。今回富士見町のルバーブ栽培の農家の方を2月11日の日に探訪する機会がありましたが、その時はもっと大きな富士山がいきなり現れて来たものでした。

 

茅野市から見た八ヶ岳

茅野市は八ヶ岳のお膝元であり、ちょうど寒天工場からは見えないんですが、少し走らせるとこのように美しい姿を見せてくれます。大学1年の夏休みには蓼科グランドホテル滝の湯でアルバイトした懐かしい土地でもあります。登山としては東京時代に3回くらい登りました。一度は年末大晦日の冬山で、赤岳山頂付近で風雪に遭い、顎のあたりが軽い凍傷でポロポロ皮が剥けた経験も懐かしいところです。

 

釜の煮込みが67日

去年に続き、今回も釜でのテングサ煮込みからモロブタに移した煮汁の天切りまでの工程で、夜10:30起床、翌日夕方5時に就寝というハードなスケジュールが休む間もなく67日間。前後の準備期間と片づけを合わせて約80日。一つ一つの作業そのものは決して重労働というわけではないのですが、力仕事の瞬間も多々あり、睡眠不足が背景にありまして、容易な仕事ではありません。ただただ慣れていくしかないという感じです。

 

TBS取材中

後半にTBSの取材が入りました。この土地に特有の伝統産業だけに新聞やテレビはひっきりなしに取材に来ますが、それらは季節の風物詩ということで、地元県内のニュースの一コマというものです。今回のTBSはそうではなくて、新しい企画の「不夜城」というタイトルで夜に働いている人たちを追ったドキュメンタリー番組ということで、22:30の起床時から付き合ってくれました。放送は3月29日の深夜の時間帯だそうです。

いろいろこれからの企画の話もしたし、私としては農家農村が、ここならではという仕事を見出して、「農閑期」という克服し難い壁を突破できるようなきっかけ作りがテレビ番組を通じても発掘されていけば良いと感じました。

 

鶴ヶ城

さて13日は八ヶ岳から佐久に抜け、会津若松を目指す日程でした。ホテルの宿に入るにあたり、ちゃんとしたカバンを持っていなかったので、旅行カバンを買える店?? と思案する中、結局佐久にあるイオンに入って手頃なバッグを買い、そして長野県を後にしました。あとは会津若松までお店が並ぶ市街地というのは通過しません。

佐久市のイオンにいたときに、日曜日でもあって、「お父さん!」という男の子の声が耳に入り、ハッとしました。10年前には盛岡のイオンで私がそう呼ばれていた。ここは長野で自分の子はいない一人身。仮に子どもたちがそばにいたとしても、いまはもう10代も半ばでこういう高い大きな声で遠くから呼ばれることはありません。そういう経験はもう永久に失ってしまったのだといまさらながら気が付いたのでした。。

翌日は夕方に抗原検査の予約をしていたために、あまりあちこち気ままに移動というわけにはいけませんで、ナビで到着時間を気にしつつ湯沢・横手から沢内に戻り、薬局で鼻から採取する抗原検査で陰性を確認し、家に戻りました。

わかっていたことですが、家が近づいてくるにつれ、こちら岩手での生活の感覚が戻って来て、昨日までの茅野の生活が遠のいて行きます。現実に戻り、こうして部屋のパソコンに向かっている姿を茅野では早く早くと願いつつ労働した日々ではありましたが、戻ってみれば当たり前のことで、こうした当たり前の自由な時間を持てることは貴重ではありますけれど、戻ってみればそれまでです。一番ワクワクする時は、工場を車で後にした直後の、自由になったという解放感でしょうか。自分で自分の時間を工面できるありがたみをひしひしと噛み締めながら、霧ヶ峰へと走らせる。ちょっと贅沢してCDや外部入力の付いたオーディオが軽トラには備わっていて、スマホから繋ぐケーブルもあります。これでブルックナーの5番を聴きながら霧ヶ峰を走る姿は、寒天作業中に何度も頭の中で予行演習されていたものでした。。

5番の終楽章のクライマックス(コーダ)は実に壮大です。トゥッティというんでしたか、全部の楽器が鳴り響き、主旋律は金管群が担当し、弦楽器は全て伴奏に回ります。この伴奏の弦楽器が必死に刻むリズムが何とも言えない魅力に感じています。

冒頭に触れた北アルプスへの空間をブルックナーが満たしてくれましたが、こうした山岳にはぴったりですね。帰り道のルートも、一部軽井沢のグネグネ道から高崎・前橋の市街地は高速道路で切り抜けましたが、後の会津へ向かう道は国道122号という山中をゆく道路。日光を過ぎて鬼怒川・川治・湯西川と温泉地を通過し、車中はやはりブルックナー。8番、9番と進みます。市街地ではどうも似合わずブルックナーは山間部というのがやはり実感できます。

暗くなって、会津若松に入り、鶴ヶ城を眺め、宿に入り、11月24日以来の晩酌を楽しみました。

そして、いまは再び農家に戻り、お米の出荷も全品種対応いたします。どうぞまた宜しくお願いいたします。

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寒天煮込み開始です(長野にて)

岩手から500km離れ、八ヶ岳の麓、茅野市に来ております。11月24日到着なので20日くらいは経過したでしょうか、今年も伝統製法の寒天製造所で煮込みの業務を担当しています。

始まってしまえば、長時間の淡々とした労務が延々と続き、決して楽な仕事ではありません。楽しみと言える部分は来る時と帰りの移動の旅時間ということになりますか。

 

長野市で1泊した後に茅野市へ向かうのに、これまで大町方面へ行っていなかったので、ちょっと遠回りで向かってみました。信州大学1年目の6月頃、こちら青木湖へ来た記憶があります。いまはあまり言われないかもしれませんが、当時「思索の湖」といった表現がされていて、鬱蒼とした静寂なイメージであろう湖を見たくなって出かけたのでした。

ニーチェのツァラトゥストラではないですが、そもそも長野県のような山岳高地で思索して過ごしたいといった感覚が大学文学部の原イメージみたいに感じていた高校時代でしたし、その思いが現実に叶ったわけでした。

 

こちらは連続している中綱湖です。釣りで有名だったような気がします。

 

すぐそばには大糸線の「海の口」という駅。海という言葉が長野にはあり、小海線とかもですね。

 

長野市では素泊まりでしたので、近所にモーニングを食べに行きました。何か昭和のイメージがありますね。いまはコーヒーと朝食という場合では、ハンバーガーの店かドトールみたいなところに行くのでしょうが、いわゆる喫茶店に行く機会もないし、いいですよね、モーニング。「ブルーリボン」という昔ながらのお店で500円でした。

 

こちらは後日、気温がどうも高いということでテングサ煮込みが休みになって軽トラで出かけた時の食事です。長野県ではかつ丼はこのようなソースかつ丼が主流のようです。

 

そして寒天の煮込みが開始しました。釜の底部分が新調され、去年見られたバーナー部への漏れはなくなりましたが、樽の板は古く、こちら脇からの漏れはあるのが難点です。。水を一気に貯めると漏れるので、少しずつ水位を上げ湯気で板の隙間を封じながらお湯を煮るのです。

煮込みがおしまいの2月10日頃まで先は長く、ただ無心で仕事に向かうばかりです。暮らしの楽しみ的な時間がないので、出かけたりゆっくり夜の時間を過ごしたりという感じではありません。酒造りや炭焼きなどもそうかもしれませんが、火にかけて仕込む作業というのは、どうしても昼夜を問わないつきっきりの作業工程になるのでしょう。夕方も早く寝たいところですが、夜に噴火して吹きこぼれにならないよう、エアで撹拌をしっかり行い、寝て5時間後には起きまたエアを行うといった具合です。

その後はそのまま12時頃から舟にクレーンで煮汁を草ごと移し、布のフィルター越しに溜まっていく「のり」をモロブタにポンプで注入し、やや固まったところで21本に切って外に運び出し、庭作業の人たち10数名が改良と言われる台に並べる天出しに引き継ぐというものです。

 

庭では藁しきや「とかし」の設置も終わり生天の並べを待っています。写真はまだ始まる前の状態です。今日が9日目の煮込み。前年の煮込みは70釜でしたので、始まったばかりです。

まあ岩手の日常とは違った経験が得られますし、昔ながらの煮込みや天出し、庭での自然な製法は自分の農業にも通ずるし、少人数で大規模機械化を目指す国の趨勢にも逆行しますかね。

大規模農業の推進が農村コミュニティーの希薄化をもたらすみたいな議論が常套句みたいに言われますが、こうした伝統製法の寒天作りも、りんどうやにんにくとかの手作業の園芸品目、いわゆる手仕事産業も、結局衰退することにつながるのでは、ということが将来への懸念部分じゃないかと思いますね。地元でもりんどうは産地化しているので推進はするものの、主流は大規模機械を投じて有休農地を減らすそば・大豆等の土地利用型作物が勧められているわけで、りんどうも兼務していた人も、とても手作業のりんどうまでやっていられなくて、作物系に専念するケースが出ています。

こちらの寒天工場もあと何年続くでしょうか? 全国でここだけという一級の特産なので生き残ることもあるかもしれませんが。

寒天煮込みももう少し手作業の労苦を減らし機械化合理化できないかとつい思ってしまって、それは上に述べたことと矛盾する?と思ったりしますが。。

なおお米は玄米を持参しており、郵便局も近くあり出荷に応じております。亀の尾、チヨニシキ、いわてっこの3品をご用意できます。どうぞ宜しくお願いいたします。

 

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寒天作りが終わり農家へ戻りました

釜の湯気

久しぶりに岩手から記事を書きます。2月12日の朝に寒天の私の作業が終わり、茅野市を発って、帰路に向かいました。

寒天の釜の仕事は前日お昼頃の草入れから始まり、エアコンプレッサーによる「棒立て」で釜の中の草を混和する作業を3回行って、それからクレーンで中身を舟に移し、朝方に濾過した液を箱(もろぶた)に注入して、それが固まるのを待って包丁で切って、箱を運搬車で庭に運ぶ、という一連の流れになります。

庭に運び終わって庭の人たちに引き渡して工程が終了となり、最後の煮込みもこの2月12日の朝の庭への運び出しを持って完了しました(午前8時過ぎ)。

 

クレーン作業

夜中から始まる作業は、先ほどの庭へ運び出して寒天として並べていく天出しの作業(10数人で行う)から逆算し、組み立てられています。リモコンでクレーンを操作して、舟に液と草を移すバケット作業は最初の大仕事と言えます(深夜12時から2時頃まで)。要はUFOキャッチャーのようなもんですが。

 

舟

バケットで釜から草と液を隣の舟に移します。白い布はコーヒーフィルターと同じ役目です。へりに草を置いていて、これは後に防波堤の役目になります(防波堤はまだ未完成です)。

 

満杯になった舟

バケットで釜から移し終える頃にはこのように舟は溢れそうになります。先の防波堤がないと舟の布どうしの隙間箇所とかから下層部に草が落ち混入していき、純粋な寒天の液に「オリ」として草が混じってしまうのをできるだけ防ぐためです。

 

舟下部のつらら

その舟の下層部がこちらです。舟には各セクションに竹製のフィルターが設置してあって、その上に布を敷きます。それで濾された液がこの部分に溜まっていきます。したたる液はこのように上部につらら状にもなっていて、鍾乳洞のような面白い光景を見せてくれます(コリコリした歯ごたえで旨い)。この撮影時にはもちろん液はなく、箱に全部出し終わって最後に溜まったオリを掃除している時に撮影したものです。

毎日が長時間にわたる辛い作業ではありました。終わっていま岩手へ戻っていますが、その戻ったあとの時間の経つのの早いこと。もう10日以上になります。夜10時半に起きて次の日の夕方5時に寝る作業は大変でしたし、この10日間は疲労回復の期間のようで、久々のパソコンに向かいながらゆっくりと過ごしています。とはいえ、除雪をしたり、籾摺り作業をしたり、そしてタラノメの作業を開始したり、にんにくの皮むき、決算と申告の準備をしたり、決して暇ではないんですが。。強風で切れた光ケーブルの修理に立ち会う日もありました。吹雪の中、業者さんがケーブルを修理して無事インターネットが復旧したのは嬉しいことでした。

 

松本ピカドン

今回の長野からの帰路では上田の「無言館」を訪れる計画でした。そのために松本を経由しますが、まだ、ありました。信州大学前の食堂「ピカドン」。広島の原爆投下を後世の松本市民に伝えるメッセージで名付けられたと思います。40年経ってるんですね。。八十二銀行も懐かしい。チキンカツカレーを食べました。

本当は信大の生協で昼を食べたかったのですが、駐車するのに時間がかかりそうで、今回はパスしました。学食の方が入っている人の数も密ですしね。

この前に、ルバーブを栽培されている農園を見学させていただいたのですが、それについては春以降また改めて記事にも挙げていきたく思います。

 

無言館

松本から上田に向かい、現在は無料になった三才山トンネルを越えて、無言館に到着しました。戦死した画学生の残した絵を収集している記念館です。多くは二十歳前後の絵画を志す若者の遺作が展示され、絵のそばにはその若者や絵についての説明が記されています。若い生命のほとばしりを感じますし、その後この人はまもなく突然の戦死を遂げるのだということを前提に絵に接するという鑑賞です。。

敷地内にはもう一つ別館もあって、そんなに広くはないのですが、1時間ちょっとかけて、この貴重な空間に滞在してまいりました。写真は撮ることができません。

 

無言館別館

無言館の第2の新館です。こちらも静寂な時間が流れていて、今朝までの次々と目前の作業に迫られて追われるように過ごした80日間から、すうっと意識が切り替わっていきます。ポストがあります。実際に配達されるポストではないですが、思いを書き連ねた手紙を投函することができる、そういうポストです。三陸にもこのようなポストがありましたか。いや、公衆電話でしたか。。

 

真田神社

上田市では、息子が高校受験を迎えますので、2年前の長女の時と同様、真田神社で合格祈願のお参りをし、お守りを買ってきました。落ちない城、不落城ということで受験の祈願も多いとかです。

そしてこの後はすぐ高速に乗って、その日の宿になっている新潟市に向かいました。夜の10時半に起きてずっと仕事をしてそのあとの夕方ですし、もう寝るべき時間に上信越道を高速運転するというのは、結構辛い行程でした。毎日5時間しか寝られませんでしたしね。10分くらいのうたた寝は休憩時間にしてましたが。上田から軽自動車でも料金が4,500円かかったので、距離としてはかなりあったということですね。何とか新潟市に着き、無事予約していたホテルに到着しました。

 

おまけ1カレー

おまけ1。寒天工場では食事は3食給食センターが配達してくれる弁当です(正月や日曜日は休みになるため、寒天の専務が弁当を買って届けてくれる)。金曜日の昼はカレーと決まっていまして、これは結構美味しかったです。最後の金曜日は出発でギリギリ食べれませんでしたが、ピカドンでチキンカツカレーを食べましたね。

ちなみに、天草を煮る釜の仕事は夜食が必要で、これは家から玄米を持参して、釜飯の素を買って味付けし食べておりました。

 

おまけ2バイキング

おまけの2です。新潟のホテルの翌朝の朝食バイキングです。盛り付けしてる時はもちろんマスク着用ですね。この後コーヒーとヨーグルトをデザートにいただきました。朝コーヒーが飲めるのは喜ばしいことで、寒天の時もコーヒーメーカーで作ってましたし(起きてすぐという意味で夜食を食べる23時過ぎに作ってましたが)、またホテルの予約でも大概はコーヒー欲しさに朝食付きにしています。もっとも道中にコンビニでもコーヒーは買って飲むんですが。。

朝これだけしっかり食べれば、コロナ禍での県外の移動になりますし、昼ご飯は無理になくても大丈夫です。結局はいろんな店に買い物で立ち寄ることにはなりましたが、昼は食べなくてOKで。。

これからの時期はタラノメに集中して、飲食店からの受注が厳しい状況下で、無事販売ができるよう努力していかなくてはなりません。これまで買っていただいていたお店の方にこれまでのようにどうでしょうかと電話をかけるのも、すごく抵抗を感じてしまいます。。季節のものと比べ、柔らかくて緑が綺麗なタラノメは需要もあると思いますし、冬の仕事の1部門として続けていきたいと思います。ちなみに、このタラノメがあるために寒天の仕事は2月上旬までにしてもらっています。庭で寒天の作業に携わる10数人は2月末あるいは3月初めまで外の仕事を続けております。最後の2月12日に出した天も寒天になるのはこの月末頃になるわけです。ただ、もう新たな「天出し」は13日以降はないですので、並行して庭の片付けも進めていくことになりますね。青森から赴任していた人たちもそろそろ帰宅時を迎えることでしょう。

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寒天を煮ています

釜
12月と1月は長野県茅野市で寒天作りに従事するようになり、4冬目となっています。これまで3冬はテングサを洗う役でしたが、今年はテングサを煮る釜仕事に変わりました。

大きな釜で毎日500kg(乾燥重量)の草を煮て、煮汁の生天を作っています。

写真は草を投入した直後の釜です。

 

舟

夜も深まり12時頃から昔からの舟にクレーンのバケットで草と煮汁を移し、布で漉して下部のコンクリート槽に液を溜め、ポンプでモロブタに流し込む流れです。

棒で吊り下がっているのは石を麻袋で包んだ重石です。これで草まみれの液から液だけを搾り込みます。

 

のりつぎ

上の舟から漉した液(ノリ)をポンプで吸い上げて、こうしてモロブタに注入し、約2時間くらいで固まり天になります。それを包丁で21本の寒天に切って、運搬車で庭に運び、カイリョウと言われる台に天出しします。あとは凍ったり溶けたりを繰り返して乾燥した角寒天になります。その間庭人たちはカイリョウを積んだり広げたりを繰り返す重労働を日々こなしています。

この天出しをしてからは庭仕事の担当になります。釜の仕事は深夜11時頃から釜より舟へ移す作業、3時過ぎから舟からモロブタに注入するノリツギ作業、6時40分頃から固まった天を切って庭に運ぶまでの作業、そして去年までやってました洗われたテングサを釜の前に搬入し準備を整えて、湯が沸いたところで草を投入する作業(午前11時頃から)、そして草が入り終わった後3回ですが棒で釜の底をつついて草が固着しないで流動するようにさせる作業(棒立て)に分かれます。棒立ては最近はエアーコンプレッサーを使います。

 

クレーン

クレーン舟移しに3時間、ノリツギと濾した草のカスのトラックへの積載で3時間、固まった天を切る天切りと草の搬入で3時間、草の釜への投入で3時間、棒立ては3回で1時間という感じです。

 

バーナー

あと2時間に1度バーナーを切って掃除してやることになっています。

何歳になっても新しい仕事に挑戦することは大事で、ついつい自分の流れでやっているのではないか、新しい学びや気づきから遠ざかっていないか、考えさせてくれる。

まずきつい長時間の作業になりますが、無事2月上旬まで勤め上げられればと思います。