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カーナビは心の友、地図更新に苦戦

白山を遠方にドライブ中
長野への2か月出張の行き帰りの軽トラ旅は自分にとって特別なリフレッシュと気持ちの切り替えの期間になっています。秋に農業が終わったという節目と、冬の寒天作業が終わったという節目ですね(もちろん後者の方が解放感が絶大ですが)。先月の長野県茅野市からの帰り道は紀伊半島を1周し、大阪から北陸へ抜けて、山形仙台経由で帰宅する長旅となりました。ブログでも書きましたが伊勢神宮とか南方熊楠記念館への訪問、岡本太郎設計の太陽の塔の見学など、だけでなく走行した旅の全体が心に刻まれています。そして、その時のドライブの走行は、帰宅後にGoogleマップで辿り直してみると、正確には出ませんのでそれ以上の走行キロ数になりますがおよそ1,800kmになりました。写真は福井県の越前市付近で正面に見える雪山が多分白山であろうと思って車内から撮影しました。

その旅を支えてくれたのはカーナビになります。カーナビを友に、旅が成り立っているようなものです。昔オフロードバイクで旅をした時はもちろん地図だけが頼りで、「ツーリングマップル」をバイクの風防手前のスペースに挟んで、東京からおよそ東日本のほとんどは走行したと思います。

ナビに頼るようになったいまは地図はもっぱら部屋にいる時の画面での表示になりました。地図そのものは好きでして、GoogleマップはいまでもPCで最も多く使用するアプリだし、山のコース地図、国土地理院の地図も併用して楽しんでいます。山も登山口まで車で向かうため、Googleと地形図は両方不可欠ですね。

そんな現在のカーナビは2台目で、初代は5年で故障してしまいました。ポータブル式でダッシュボードに吸盤で粘着させるタイプですが、よく剥がれてごつんとぶつけていましたので、それが原因かと思います。GPSも受信しない時が多くあったりして、同じ後継機種の「ゴリラ」5インチを2022年2月に購入し、現在に至っています。ちょうど3年ですが粘着は良くて衝撃も加えていないので、まだまだ使い続けたいと思います。

 

SDカードへの書き込み

購入してからまる3年経ちますと、やはりカーナビの地図が古くなってきます。有料の地図更新があるというのは知っていましたが、結構高価で、機械が壊れるまで地図は我慢して使い切って買い換えるしかないかなと思っていましたが、検索してみると、いま現在5インチのカーナビそのものがどうやら製造が終わっているようなんですね(国産の製品としては)。考えてみればスマホをダッシュボードに設置すれば済むことで、わざわざカーナビに代金を払って使うのは需要が減って来たという傾向なのだと思います。しかも本体だけでなく地図そのものの維持更新にもお金がかかるわけです。馬鹿らしいことかもしれません。

現在は新製品がなくて、自分のと同じ3年前のモデルが倍近い値段で中古品でしょうか、Amazonとかにも載っています。そういうことであるならば、いずれはスマホに取って代わられるのかもしれないが、ここは最後の贅沢、奮発して地図更新をし、もう3年はいまのゴリラに頑張ってもらおうという決断をしました。この5インチのカーナビと共に長距離の旅を続けてきましたし、やはり見やすい、めんこいやつなのです。ギガやバッテリーの減りの心配もありません。この最後の贅沢に出費を許してくださいの気持ちです。スマホのGoogleマップで住所や電話番号を調べてからカーナビに入力するのは面倒ではありますが、まあそれも旅へ出る楽しみの儀式で、セルを回した後の暖機運転です。

ところが、その地図更新の手続きがこんなに大変な作業であったとは!

まずSDカードを買ってこなくてはなりませんが、そもそもダウンロードするためのPCがウィンドウズで、10以上でなければだめですと。スマホもダメ、Macには対応しておりません、と冷ややかな説明文章が目に飛び込みます。でもどうしても更新がしたかったので、近所の家に行ってみると、ウィンドウズ7だそうでがっかり、結果、20分くらいの事務所の知人にお邪魔することにしました。どうせコメリまで行ってSDカードを買ってこなければならず、簡単に近所ではすみません。最初16GB以上という記述を見て16GBを買いましたが、容量が足りず、32GBを買いに再びコメリへ走りました。要注意ですね。16GB以上、ですから32ないと入りませんね、確かに。実際使用可能領域は16や32よりは少ないですし。

いったんナビにSDカードを入れて更新するための機種情報を書き込んでから地図提供元である「ゼンリン」のサイトよりウィンドウズ専用の地図更新のためのアプリを使って、まずは購入代金11,880円を決済し、地図データをダウンロードします。サイトからまずPCへのダウンロードですが、これで80分はかかりました。途中オセンで買い物したりしましたが余裕で終わっていません。そしてやっとダウンロードが終わり、次のSDカードへの書き込みの段階に入ったところで、エラー表示が出て、書き込みができない、SDカードが壊れているなどのメッセージが出て、あっけなく終了。作業進行の説明をスマホで並行して読みながら、購入手続きとかダウンロード時間以外にも時間をかけてここまで来たのに、できませんでした?

翌日パナソニックの技術相談の窓口に電話で問い合わせました。技術系の人らしい口調で、丁寧に説明してくれましたが、結局その通りSDカードか、SDカードリーダー(USB端子に接続できるアダプター)の不具合だろうとの説明でした。USBを介してのアダプターでなく直接SDカードのスロットがあるPCでなければだめなのかと訊いたところ、スロット搭載機のPCでも同じエラーはありうるのでアダプターがダメとは限らない、との言葉に安堵を覚えました。あまりSDスロット搭載機は見ないので。。

昨日、お米を配達したり、注文していたトレッキングシューズを受け取りに行く用事もあり、盛岡のインターネットカフェに行ってみました。事前に電話で確認したところ、SDカードのアダプターもあるので自由に使って良いとのことで、再チャレンジの気持ちが沸き起こりました。

時間はそれなりにかかりましたが、ソフトクリームを久しぶりに2回食べ、ココアやエスプレッソも飲んだりして、時間は過ぎました。思えば、長野の寒天出張の初回の時はまだスマホを持っておらず、溜まり込んでいるであろうメールの確認に茅野市のネットカフェに行ったことがあり、その時の店にもソフトがあり食べました。車にナビは付いていたので、電話帳でカフェの電話番号を調べ、初代ナビに入力して慣れない茅野市のネットカフェに辿り着けました。ありがとう、心の友です。

前回、SDへの書き込みの段階で失敗したので、もし本当にSDカードが壊れていたらすぐ買いに走らなくては、コンビニでも売っているのだろうか、とか考えているうちに、PCへのダウンロードが終わり、ついにSDカードへの書き込み段階に移行して、作業は途切れずに続いています。もしかして一歩進んだ? SDカードは壊れていなかった? このまま進んでくれとの緊迫の時が過ぎていきます。

そして、ついにゴールです。あまりに嬉しくて、写真を撮りました。

 

 

カーナビ本体への書き込み

ネットカフェでは利用料が1,000円弱かかりました。でもソフトや飲み物を飲食した代金と思えば済むことですね。ソフトクリームもいま高いですから。良い経験です。その後は車に戻りSDカードをを挿入してナビ本体の地図データ書き換えの作業です。ところがこれもまた時間がかかります。登山靴の受け取りに石井スポーツのあるMOSSビルに向かって進行しながら、作業は続いていて、石井スポーツでゆっくりいろんな商品を見て時間も使い、靴を購入して車に戻ると、まだ続いています。駐車場でエンジンは止めてもキーはオンにしたままバッテリーを減らしての作業です。昨秋にバッテリーをより大きいタイプに新調していてよかったです。

ジュンク堂へ行って農業書など眺めて戻ってみたら、終了していました。

サイトからPCへのダウンロードで80分、PCからSDへの書き込みで40分、SDからナビへの更新で80分、という感じでしょうか。予習で頭に叩き込んでわかっている場合の時間でこれですから、説明を読みながらしどろもどろでやっていれば、それがおととい地元で失敗した時の私ですが、とてつもない時間を要します。結局トータルで1日仕事でした。黙ってスマホでナビをすればタダで努力も要らなかったんですがね。

 

前潟駅が地図に

盛岡からの帰り道、ナビに「前潟駅」が写っています。このカーナビを買った2022年にはまだこの駅はなかったことをウィキペディアの情報で確認して(前潟駅は2023年3月の開業)、最新状態への地図更新が無事完了したことが証明されました。震災があった2011年から7冬、盛岡の農業改良普及センターに土壌分析の仕事で通った時代にはこの駅はなくて、私が車を停めて電車に乗っていた1個手前の大釜駅の次が終点盛岡でした。盛岡の内丸(通勤していた普及センターのある場所)から盛岡駅までの徒歩区間にはホームセンターがなくて、帰宅時にホームセンターにどうしても寄らなくてはいけなかった時は、大釜で下車した後に、家と逆方向の盛岡寄りのこの前潟まで車で戻って、サンデーで買い物をして帰宅したものでした。いまもし同じ通勤をするとしたら、家から直接前潟駅に車で行ってから電車に乗ったことでしょう(無料駐車場はあるんでしょうか)。そして職場まで盛岡駅から徒歩で30分近くかかるので、運動には良いし、冬だからできたことですね。そして帰宅もまた遅くなり、それからたらの芽の作業をしたりしていたので、結構忙しかったです。いまは、寒天出張時はかなりハードな拘束の作業でしたが、終わってからのドライブと、帰宅後の確定申告などの事務作業、次いでたらの芽作業の専念で雪解けを待つ暮らしになっています。こういう農閑期時期だからこそ、カーナビ地図更新という作業もできたのでした。

いよいよ今日からたらの芽の収穫出荷が始まりました。カビや腐れなどにやられることなく多くの出荷をすべく努力します。

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太陽の塔を見学し豪雪の岩手に帰りました

太陽の塔真下から

長かった長野での寒天製造の仕事も、いつかは終わります。終わってしまえばあっという間に1週間、飛ぶように過ぎ去りますが、今回の帰宅時は気になっていた岡本太郎の太陽の塔を見ることと、これまで訪れたことのない紀伊半島を一周し、南方熊楠記念館へ行くこと、が目標のドライブ旅行となり、寒天工房のあった茅野から伊那谷へ入って飯田経由で名古屋入りし、ぐるっと半島を回って大阪から北陸、新潟から東北入りし、仙台経由で岩手へと戻る旅程となりました。そして現在は豪雪の沢内で過ごしています。体を休めながら、いろんな資材の注文や決算・確定申告の作業、ハウスのパイプが曲がらないようアーチ部分を超えた雪の除雪、そしてこれから始まるたらの芽栽培のための準備をしております。

寒天作業の終盤から居座った寒波で気温の低い状態が続いていますね。ちょうど北陸付近を通過するときは寒波の谷間のタイミングで走行はとても快適でしたが、いま再び雪が続く状態で、とにかくハウスのパイプを守ることが先決です。除雪機もありますが、格納する作業舎のシャッターが雪で完全に封じられており、少し気候が緩んでからの除雪機作業になりそうです。4月10日までにハウス近辺が完全に消雪し、ビニールが掛けられるようになればと思いますが、今年の雪は手強そうです。田畑から雪が消える時期も4月末の連休の頃になる予感もします。

さて太陽の塔、何がどうとが言い表せないけどスゴイ。このようにも感嘆されたりしますが、秋頃に講談師神田伯山のラジオで伯山氏が太陽の塔を観覧した時の印象を熱く語っていて、これは寒天終了時に足を伸ばして実物をリアルに体験して来なければ、と思っていました。2か月半に及んだ出張中、じっと旅立ちの時を待ち続けていた軽トラックはついにその時を迎え、始動し、下道ですが、飯田市からさらに南下して愛知県入りを目指し旅が始まりました。

途中、伊那谷へ入る手前の高遠(桜で有名)に、同じ寒天(てんやと言ったりします)に通っていた農家の橘内(キツナイ)さんを訪ねました。写真は撮りませんでしたが、畑と作業場や住宅を見せていただきました。福島県出身で、震災後に地元での営農を断念し知人の紹介を経て長野へと移住し、ここ伊那市高遠の山深い里で有機野菜を生産販売しています。農政や社会情勢にも明るい聡明な人ですが、新規就農者として私にもよくわかります苦労を積み重ねて現在に至っています。まだ40代前半、小さいお子さんもおられ、まさにこれからの人ですね。雪がないというメリットがありますし、来年は冬期も寒天従事でなく営農を続け、完全な専業になられるかもと思い、今年の機会に訪れておけて良かったと思いました。

とはいえ、寒天から西回りで帰宅旅をする場合、権兵衛トンネルで木曽から岐阜に抜けるような時もここは必ず通行しますので、私が続ける限りいつでも立ち寄ることは簡単ですが。。私と同じく時期にはポケットマルシェにも出品しているので、見かけたらいろいろ閲覧してみてください。

 

小川清風寮

長男が誕生した時ですので20年近く前ですが、近くの農業改良普及センターで冬期にやっていた田畑の土壌分析の業務が終了となり、近場で仕事も見つからず、4か月ほどトヨタで働いてきたことがありました。1冬だけで、その後は大型免許を取って町の除雪オペレータもやりましたが、その懐かしくもあるトヨタの小川清風寮を訪れてみました。ここで個室を与えられ、近くの元町工場へバスで向かいました。村の中でも、俺もトヨタにいたことあると言う人と会ったりします。

 

フィール

最初の頃は首にぶら下げた写真証で食堂の食事をし給料から引かれていましたが、3食となるとこれが結構な額になり、途中で食堂利用はやめまして家から米を送ってもらって自炊に切り替えました。昼ごはんだけは工場の食堂を使ったと思いますが。その時に週末に通ったスーパーも健在でした。

 

伊勢神宮外宮

初日はこの後名古屋経由で亀山市にあるホテルに宿泊し、翌日は紀伊半島に向かいました。数日前から急遽、伊勢神宮に行ってみようと思い立って、検索で調べ、まずは外宮(げくう)からということでその正宮を参拝しました。中はよく見えないんですが、どこも杉の丸太がどんと屋根に乗っていましたね。

 

伊勢神宮内宮

こちらは場所を変えて伊勢神宮内宮の正宮です。石段に踏み入れた後は写真撮影禁止ということでしたが、わからずに撮影している人が警備員に注意されていました。写真の消去まで求められはしなかったかと思いますが。。地元の両沢公民館のそばに昔の石碑など残っていますが、稲刈りが終わった後に何か月もかけて昔はお伊勢参りをしたようです。一生に一度、生きて戻って来れるか、という不安もあったゆえでしょうか、こうして石に刻んだりしたんでしょう。いまは思い立ってすぐ車で行けますが、それもこれも長野県で働いたという地理的な環境によるもので、いま岩手から車で伊勢参拝に行こうとはなりませんよね。

横山展望台からの賢島英虞湾

伊勢から南下し、鳥羽の辺りで真珠を土産に購入し(鳥羽パールタウンという建物内に入る専門店)、店でも勧められた賢島(かしこじま)を目指すことにしました。賢島はホテルのほか真珠の工房や販売店があったりという感じで、海辺まで降りて歩いたりしてみましたが、特に観光で立ち寄る施設というのはありませんでした。訪れるみなさんは宿泊客でしょう。その後、賢島を去ってから、偶然ですが気になる場所を見つけ、それは「横山展望台」というスポットでした。ここまではさすがに調べもできずに、ドライブを進める中でたまたま看板で見かけて、時間も押してはいましたが、行ってみようと思い寄り道をしました。

行って良かった、素晴らしい光景です。岩手三陸のリアス式海岸とも違う何とも穏やかな光景。毛細血管のように海が入り込んでいます。これはぜひ、伊勢志摩に来られた方は立ち寄って欲しいビュースポットですね。伊勢神宮の頃にはどんよりし強風が吹いていましたが、午後からは好天となり、気温は低めではありましたが、良い眺望に恵まれました。大きい写真もこちらに掲載しておきます。

そこから。。。その日の予約は南紀白浜の温泉宿だったんですが、夕方が近づく時間帯でまだこれから250kmあります。しかもグネグネ道で。。前日もでしたが遅めのスーパーに寄って値引きされた惣菜を買い、遅い時間に晩酌をするという形の旅行になり、一人旅ですし居酒屋に寄ったりはしませんね。また結局時間が遅くなってしまうので、夕食をどこかの店で食べるということもなく、急いでまずはスーパー、そしてホテルへという流れになります。でも伊勢から白浜へ向かう海辺の景色は入江がとても綺麗で楽しめました。途中からは内陸部になり、暗い夜道を走り続けます。

2日目の夜は温泉大浴場のあるホテルで部屋にはバストイレなしのタイプの5千円クラスのホテルでした。今回はすべて朝食付きでしたので、ビュッフェ形式で量もついつい食べてしまいがちで、お昼は逆にドライブの友の飲み物とおやつで済ませながら車をひたすら走らせるというスタイルになっておりました。

 

南紀白浜の海岸

翌朝の白浜の海岸です。紀伊半島の南西部のかなり深い場所ですね。岩手沢内から車で来た地点としては最も遠い地点といえます。砂浜もまさに白くて綺麗です。この景色から左へ向きを変えると、リゾートホテルが立ち並んでいます。関西エリアでは人気の観光地ではないかと思います。

 

南方熊楠記念館

この地域での目的は南方熊楠記念館です。岬の先端にあたる部分に建っていて、観光と兼ねるにも良いロケーションです。熊楠を知る人は寒天の仕事人の中にも結構いて、昭和天皇に粘菌を菓子の箱に入れて送ったとか、ロンドンの大英博物館を出禁になったりとか、知っている人もいましたね。われわれ人文思想系をやった者としては、粘菌学者という狭い範疇の人でなく、森羅万象に渡る現象物の観察の積み重ねから得られた壮大な世界観を提示しようとした知の巨人、というイメージになります。昔、中沢新一氏の『森のバロック』を読んだこともありましたが、8年くらい前になりますか、子どもたちと山形市の博物館へ「熊楠と粘菌の世界展」をお盆頃に見に行った時の印象も強く残っていました。例の菓子箱も山形に展示されていましたし、粘菌についてかなり詳しく紹介した動画も放送されていました。学芸員の方がとても親切に詳しくそばにいて解説してくれたこともよく覚えています(あまり他にお客さんもいなかったので)。

 

熊楠記念館の屋上テラスより

その熊楠記念館の屋上テラスからの眺めは素晴らしいものでした。ぐるっと周囲が見渡せます。位置的には四国の南部、高知とかと同じくらい南です。太平洋に面しているという点では関東も同じかもしれませんが、やはり遠くに来て南に張り出した土地で太平洋を見ている感慨はありましたね。

 

京大水族館

すぐそばに京都大学の水族館を見つけ、入館しました。熊楠館と両方入ると記念品がもらえるということで、箱の中から磁石で吊り上げた景品は、若き熊楠と南方マンダラが描かれた缶バッチでした。貴重なものです。説明を加え、中3の娘に渡しました。

ここから田辺市内にある熊楠の住んだ住宅を目指し、渋滞とナビがあってもわかりにくい路地をぐるぐる回った後に到着しましたが、校外学習に来ていた小学生が走り回っていて、また入館料もかかるということで、外観と庭を眺めてから立ち去り、次のメインの目的地である大阪の万博公園を目指しました(吹田市にある1970年の万博の記念公園です)。寒天の仲間と合流する予定でしたし、時間ももったいないので高速を使い2時間走りました。

 

太陽の塔正面

大阪市内も高速でビュンビュン走るため、渋滞はありませんでした。予定通りに駐車場に着き、寒天仲間のリュウちゃんと共に太陽の塔へ向かいました。いちおう写真は撮りましたが、写真からは実物の感動は得られません。実際にここに立ち会うことで、この70mの塔の凄さ、岡本太郎の凄さを感じることができます。説明することが難しいすごさ、万博といった技術の進歩や明るい未来の生活といったイメージへのまさに真っ向から対立する強力なアンチテーゼ。メインの万博会場というその最先端の調和の美空間のど真ん中に屋根を突き破って途方もないいびつなモニュメントが不気味に聳えている。当時の小学生世代にはこれほどのインパクトはなかったでしょう。自分もその世代ですが、ついつい、この岡本太郎の作品にいろんな概念的意味づけを考えたりしますし、南方熊楠と比較してみたり、世界観という視点で解釈しようとしたり、それは自由でしょうが、まずはその「説明すること」を超えたインパクトをそのままに受け止めたいと思います。

こうして、太陽の塔のみが終了後も特別に壊されずにここに残りました。その意味はとても大きく、当時広島から連れて行ってもらえなかった私も、追体験することができたのでした。しかし岡本太郎自身は壊すことには当然の決まりとして受け入れていたようでした。塔を壊さないで残して、という投書は、当時の小学生からの声が多かったと聞きます。

 

太陽の塔内部

内部は、生命の進化の系譜がモニュメントとして造形されています。これは後から作られたものでなく、万博の1970年当時からこのような内部になっていたのですね。そうした地球上の万物を包み込んだ象徴として「太陽」がここに聳えているわけです。こうした地球規模の発想は南方熊楠に通じますね。2人の巨人は同じ魂を持っているように思います。同じ日にこの2人の巨人の足跡を見たことは貴重な経験になりました。

階段で2階以上に上がっての写真撮影をしたい人は500円払って、たすき掛けにするスマホのホルダーというのを借りなければなりません。多分このモニュメントを上の階で撮影しようとしてスマホを落下させた例があるのでしょう。下にいた人には危険な話ですよね。随所に案内係さんがいましたが、この写真の箇所で、この首長竜だけは万博以後一度もこの系統樹の幹から外されて下に降りたことはありません、ここは写真を撮る絶好のスポットですよと教えてくれました。500円払ってホルダーを買った人だけに教えてくれているそうで、撮影しました。

 

太陽の塔内部の進化の図

わかりづらいですが、系統樹モニュメントのスケッチになります。

 

太陽の塔の腕の内部

そしてこちらは太陽の塔の左右の腕の部分です。このように頑丈な鉄の骨格が塔を支えていて、これはかなりの工事ですね。当時の製作費で6億3千万円かかったそうです。

 

太陽の塔後ろ

太陽の塔を後ろから見ると、こうです。黒い太陽と言われています。顔の部分はレンガが張り詰めております。この顔含め外装に3つの顔が描かれています。

 

地底の太陽

4つ目の顔になる「地底の太陽」は内部の1階にあります(展示品は数少ないスケッチから作成したレプリカで、実物は行方不明のようです)。

この後、塔を出て、同じ万博公園内にある国立民族学博物館を見て歩きました。結構広く膨大な展示品があり、じっくり見るには時間を要します。とにかく世界中のあらゆる展示品が並んでいると言う感じです。閉館までいましたが、まさに万博、熊楠含め広い視座の森羅万象を描いた世界観に浸った日になりました。

 

道頓堀川

それからリュウちゃんと車は別ですが道頓堀に向かい、初の道頓堀体験となりました。吹田市から一般道ですが全然混んでいません。大阪は市街部の道路網がしっかりしているようです。そして阪神優勝時に人々が川へ飛び込むのがここなんですね。串カツとたこ焼きを食べビールの生中で乾杯となりました。急遽ですが楽天トラベルで宿を探し簡単に取れましたが、豪華なビュッフェの朝食付きで一人4,500円は安いと思いました(心斎橋地区)。

 

富山のブラックラーメン

翌日からは、目的も終えたので、もう岩手へ帰るだけです。1日じゃ無理なので途中新潟県の上越市にホテルを取りました(こういう計画を寒天従事時に綿密に立てていたわけです)。朝リュウちゃんと別れた後は、もう予定もなくひたすら走るのみです。京都は清水寺のそばを通り、琵琶湖西岸の道を北上し福井県に出て、石川、富山、新潟と距離は長いです。夕方に富山市内でブラックラーメンを食べ、スーパーで富山名物のナルトを買って、上越市へ向かい、最後の宿泊、そして翌日仙台市内で長女と「北京餃子」で中華を食べてから、後は高速で帰宅しました。名物を食べたのは道頓堀の時とこのラーメンだけですね。伊勢神宮では店の並ぶ場所で「伊勢海老コロッケ」と「松坂牛コロッケ」を買い車で食べました。確かに味はそれっぽい感じでした。伊勢神宮では「伊勢うどん」を食べるのが慣わしだそうですが、何となくこういう観光地の店には入れないタイプなんですよね。人も並んでいたし。去年、神戸の市内で昼時に神戸の中華街にいましたが、ウロウロ歩いたものの、なんか、結局入れませんでした。

大阪へ行かれる方は、機会があったら万博公園の太陽の塔を実際に見て、何かを感じてもらえればと思います。そして紀州は熊楠記念館に立ち寄られた時は展望テラスからの眺望がおすすめです。本当は熊楠も闊歩した熊野の森も歩いてみたいところですが、熊野古道も那智の滝も行けませんでした。那智の滝など本当に最南部の深いところにあるのです。もう紀伊半島に踏み入れることはないかもしれません。が、寒天の仕事をしていなかったら、去年の神戸も、その前の年の合掌造りや佐渡ヶ島もなかったことです。大学生の子どもたちには探究心と好奇心をといつも言うのですが、知らない世界を見聞することは何かしら仕事や生活面でも影響を受けますよね。しばらくは東北管内で登山をメインに休日を時々設けたいと思います。

 

大雪のハウス

まずはこのドカ雪でハウスや建物に被害が出ないよう対処しながら、事務作業とたらの芽の生産に励みたいと思います。積雪がここまでになるのは久しぶりで、これから気温が高くなるらしいのでそれを期待し、シャッターを開いて除雪機が出せるようになったら、まずは作業場と住宅を行き来できるように払いたいと思います。玄米在庫もだいぶ減ってきており、いまはその作業場からの山を乗り越えて玄米を出荷ごとに個別に運んでいますが、もうじき玄米在庫も尽きますので、同じ冷蔵庫に氷温で貯蔵している籾を住宅の方に設置している籾摺り機械まで全部運び込んで玄米にする作業をしたく、そのための除雪機除雪のタイミングを待っています。次いで、ハウスの方の水稲種まきと育苗のためのビニール掛けのためのハウスの除雪となり、それは春一番の外作業といえますね。室内では並行して種籾の塩水選や水漬けがあります。

とはいえ、それは1か月後の作業ですので、その前にいまはたらの芽準備が課題で、3月中旬の出荷開始を目指して準備を進めたいと思います。

 

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しばし長野からの通信です

煮込み中

毎年11月の最終週より、長野県茅野市で寒天作りに従事することが慣例になっていて、今年も長野へ渡り、12月になったいま、寒天煮込みの作業が本格化してきています。

深夜11時から、釜から舟へ蒸らし中の内容物のクレーン移送、布と竹のフィルターで濾された煮汁の濾過とモロブタへの液の注入、3時間かけ冷めて固まった天の切断と庭への運び出し、そして次の草の運び上げと釜への投入煮込み、エアによる攪拌。。これで夕方になり短い就寝、そして23時よりの舟へのクレーンでの移し替え、のくり返しです。

 

初の天

モロブタに注いだ煮汁(ノリと言う)を固まったところで切るまでが釜の仕事です。1日に320枚以上切ります。今季初の天。それをフィールドに運ぶと庭仕事の人たちが田んぼに作った施設に並べていくのです。

 

茅野からの北アルプス

市内からは北アルプスが遠望でき、左には穂高連峰を、そして深淵なる怖れを抱かせる大キレット。右には松本ではお馴染みの常念岳が鎮座し、大キレットに右手写真のど真ん中には盟主槍ヶ岳の穂先が天を突いています。ズームなので解像度がは悪いですが。

 

赤岳天狗尾根

さて岩手からの旅程です。今回は高崎市で泊まり佐久方面から長野入りし、小海線沿いに八ヶ岳を南から眺めつつ国道を走りました。赤岳に続く天狗尾根が見えます。昔、秋の平日に一人での山行で赤岳から南へ縦走し、誰もいないテント場で夕暮れを迎えた時に間近に見えたゴツゴツした天狗尾根。これには何とも言えぬ荘厳な感じを受けました。

 

今期初富士

しばらくして富士山が顔を出しました。今年の1月1日も釜が休みでこの辺りに来まして、そして夕方帰宅後に能登の地震が発生した日でした。

 

恐竜の足跡

高崎市からやや南下して神流川の美しい紅葉を見ながら西へ向かいましたが、途中、恐竜の足跡ということで、立ち寄りました。

 

ぶどう峠

恐竜の里神流町を過ぎて、群馬県上野村へ入り、険しい山道を越えて、ぶどう峠に到着です。長野県へは通常は十石峠を越えるようですが、ぶどう峠という名に惹かれ、全く1台も対向車とすれ違わなかったこのコースを選択しました。ぶどう峠が何となく記憶にあったのは、バイクのツーリングのマップにあったのを覚えていたんでしょうか。コーナーを攻めたい人には格好のコースです。道幅はとても狭く、すれ違いは大変そうでした。

 

ぶどう峠の祠

ぶどう峠直前には祠がありました。この近くは私が23歳の時の8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落の現場になるようです。御巣鷹山がどれかはわかりませんでしたが、当時事故を受けて出動した捜索隊はここぶどう峠を目指し登ったという記載も見ました。

ところで、釜の担当になると、午後1:30〜4:15までは煮たテングサの蒸らし時間で休憩となり、SBCテレビ(TBS系列)のローカル情報番組を見て過ごしています。たまに素晴らしい企画に会うことがあり、12/11の大鹿村在住のドイツ人女性ウーテ・ヴォルフさんを訪ねる番組は良かったですね。

子どもの頃から日本文化について書かれた本を愛読していて、終戦後ベルリンの壁ができたことをきっかけに、日本への憧れが大きく高まって、移住して、大鹿村で陶芸作家の日本人と結婚し、陶芸で生計を立てながら自給自足の暮らしを続けてきた80歳を超えた方でした。

電気と電話(黒電話)はあるものの、ネットの電波環境もなく煮炊きや暖房は薪で、ガスや灯油などもない、山から引いた沢水を使った古民家での、いまは一人暮らしの生活です。水墨画を描かれ、思索に満ちた日々を送っておられ、そのたたずまいに感銘を受けました。

「感動」と「畏怖」という言葉が自分の好きな言葉で、逆に「便利」と「文明」が好きでない言葉だそうです。そう話しながら水墨画風に筆で描いていました。

大鹿村には何度か訪れていますが、こういうお婆さんがいらっしゃったとは、です。バイクでも3度くらい、そして寒天に来てからも一度訪ねました。茅野からは杖突峠を越えて高遠に入りずっとそのまま細い国道を南下するのですが、途中冬季通行止めになっている箇所があって、いったん伊那谷の本線に降りないと行けなかったと思いました。

ウーテさんの取材番組は良かったですし、訪れた芸人さんも悪くはなかったですが、もう少ししっかり時間を取って掘り下げて、彼女の思う世界や自然に対する畏怖や感動の心のありようを掘り下げてほしかった気がします。

機会があればこの方を訪ねてみたいと思いました。ドイツの人としてブルックナーの音楽観やハイデガーの自然観など、堪能な日本語でお聴きしてみたいものです。

 

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晩秋の西和賀と秋田への小旅行

りんどう片づけ

比較的暖かい秋で好天に恵まれて、りんどうの出荷とか稲の脱穀作業が終わった後のいわゆる秋仕舞い作業も順調に進みました。好天はハセ掛けの稲にも良い環境だったと言えるし、何よりも秋に作付けをしたにんにくと小麦がこれまでにないほどの良い生育となっていて、大変ありがたいことでした。とはいえ、秋仕舞いも結構な量があり、数日で決着が付くものではありません。

いちばんが、りんどうの片づけです。残った残茎を、十分に枯れてから草刈機で刈り払い、花の収穫車で通路を歩きながら丁寧に集め、軽トラで捨て場まで運んで捨てます。雨降り後は濡れて重くなっているのでやりません。また刈り払い時にりんどうが濡れていると刈り刃を通じてウイルスが伝染することがありうるので、乾いているときに刈ります。主に午後1番の作業で刈って、1品種2日くらいかけて運び出します。これが終わらないうちに雪が降ってくるとネットごと雪に乗っかかられて、支柱が折れます。。

お盆の早生品種はもう完全に枯れて軽くなっているし、ボリュームもないので、ネットを重ね、りんどうがまだネットに引っかかって立脚している状態で刈り払い、そしてネットから取り外すようにしながら集めます。彼岸品種はボリュームもあり、背丈もうんと高いので、まずは半分ほど手で追って(いわゆる花茎取り作業)いったん集めて運び出し、残りは半分サイズになった状態で自力で立脚できるので、ネットを完全に外して、その残って立っている残茎を刈り払って、運び出します。

今期で廃園にするりんどう圃場は、強引にネットを外し、支柱も全部抜いて、倒れたりんどうの茎を丸ごとトラクターですき込んでいきます。今年は極晩生のつい最近まで収穫していた生々しいりんどうを潰したので、耕耘は2回かけて埋め込みました。小麦畑の緑肥のすき込みと同じような作業です。

りんどうが濡れているような時は他の仕事を進め、たとえば脱穀後に残ったハセの紐を解いて横棒(ホケ)を解体し、軽トラの荷台で集めて、収納している小屋の2階へ搬入します。これもけっこうしんどい仕事です。ただ、空中戦の作業になるため、仮に積雪があっても進められる作業ですので、りんどうの片づけのような地際の作業が優先です。ブルーベリーや他の庭木果樹等の雪囲いもあります。ビニールを外して骨組みだけになったパイプハウスの下の方の横パイプとビニペットも雪で曲げられてしまうので外します。

 

2024年取り込んだタラノキ

タラノキも11月になれば完全に写真のような1本の棒状態になるため、ノコギリで伐採して集め、作業場に収納します。伐採するときに、来春芽が出る場所は既にわかるので、地際から2芽くらい残してその上で伐採します。上の状態で2月まで置いておき休眠が覚めるのを待ちます。寒天仕事が終わった頃には芽吹きを開始できる時期になっています。

 

カボチャのアップルパイ

小麦の作業も完全に終わり、製粉するものは製粉し、玄麦はそのままに例年のように10月末で注文を締めさせていただいて、残った在庫を秋田市の窯ベーカーカボチャさんに納入します。いつもは取りに来てくれるのですが、今年は店が休みの日も忙しかったようで、私が届けました。カボチャさんは秋田市南部の河辺町にあり、有機の小麦だけで、しかも全部薪窯で焼いているお店です。カンパーニュを販売しているのですが、サイドメニューとしてアップルパイ(写真)が非常に美味しいです。パイ生地は南部小麦全粒粉で仕込んでいるそうです(1個450円くらいでした)。

 

秋田大学鉱業博物館1

さて、せっかく秋田まで来たので、前から気になっていた秋田大学鉱業博物館へ出かけてきました。秋田大学には鉱山学部という学部があって、それに付随する施設になります。膨大な鉱物が陳列されてあり、解説は専門的で、とても全てを熟読することはできそうもありません。素人にとっては鉱物の魅力をさっとなぞるということしかできませんが、それでも十分な時間、石の世界に浸ることはできます。一番下の子が小学生だった時はこの近くのアスレチックの公園や、男鹿に足を伸ばして水族館ガオなどにも行きましたが、いまはそういうこともなくなってしまいました。帰り道に横手のまんが美術館で矢口高雄展を見てその直後に氏がお亡くなりになったのももう3年くらい経ちましたか。。さすがにこの鉱業博物館は小学生では飽きてしまったかもです。

 

秋田大学鉱業博物館2

この前の2月の寒天出張からの帰りには新潟の糸魚川でヒスイを購入しましたが、そうした縁がある鉱物は、グッと身近になります。

 

秋田大学鉱業博物館3

出口にある土産コーナーでは、化石を販売していました。レプリカなどではなく本物だそうです。我慢ができず、アンモナイトと三葉虫を購入し末娘にあげました。時々取り出して観察したりデッサンしたりして欲しいものです。2つ合わせて3,500円くらいでした。

 

モナカイベント出展

さて、11月16日には、盛岡市中心部にできた話題の商業施設「モナカ」で、当園にも年に1度農業体験に学生が訪れる盛岡の専門学校と共同で、西和賀物産展が開催され、私も亀の尾とササシグレを持参し販売してきました。こういう機会はあまりなく、米などそう売れるものでないのですが、にんにくがとにかく今年はダメでしたので、仕方ありません。秋仕舞いもだいたい目処がついていたので、楽しんできました。パッケージや台に置くポップ的なものなどよくわからずに、ゼロからの勉強の機会でした。

 

モナカアイアンのテーブル

一緒に参加した町内の鉄アート作家「山のうえアイアン」も素晴らしい展示をしてくれていました。長女にブローチを購入。チタンだそうです。

 

アイアンの鉄工スタジオ

そのアイアン宅に初めて訪れて来ました。旧湯田町内の左草という地区に住居を得て、付随する小屋は作業場になっていました。王国が準備できました。ここでどのように自分の創作の世界を展開してくれるのか、わくわくします。中央に見えるのは手作りの薪ストーブです。右奥には何かプレスに関する大きな機械がありました。

森林資源の豊富なここ西和賀町ですが、他に木を扱うクラフト作家さんも数名います。森林や木の活用に関心を持って協力隊として入植した人もいます。そうした仲間たちと共に、森林資源を価値を持った商品として活用したり、また山そのものの保全・治山とか環境面の啓蒙活動的なことも展開していきたいといった将来の目標の一端もアイアンは話してくれました。私たち農家は冬は仕事ができにくい期間になりますが、クラフト作家さんは冬に精力的に創作活動を行い、夏には森や田畑を相手に暮らしていく、そういう二刀流が成り立ちますね。われわれ農家も室内の加工を取り入れればそれはできるのですが、そう簡単にはいきませんよね。食材の提供までしか現状では当園は行えず、その分他の希少な食産業への従事ということで2か月の寒天出張を取り入れたりしています。ここでお酒造りなどができるようになれば年間を通して地元での活動ができるわけですが。。

 

フユイチゴ

秋仕舞いが終わって、りんどうの草取りを行っていましたら、2年前に植えたフユイチゴが実を付けていました。本当に冬のイチゴだったんですね。今年は秋が暖かかったから生育が良く、根雪の前に実がなってくれたのでしょう。たぶん普段の年であれば気温が足りずに、実をつける前に雪の下になっているのではと想像します。

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稲作が終わり新米の季節へ

稲刈り2024

7月と9月に大雨があって、多雨多湿の2024年夏でした。気温は高かったと思いますが、晴天の印象が薄く、天候的には恵まれたとは言えないシーズンだったでしょうか。切り花りんどうなど園芸品目に病害が出て収量を落としましたが、いつもりんどうとお米は反対になり、今年の稲作は、大雨にもめげず病気にならないで平年よりは多収であったと思います。9月には雨が多かったものの、幸い稲刈り時期の下旬は田も割合乾いていて、去年のようにバインダーが進まないということはありませんでした。もちろん水のある中を用心して刈り進んだ箇所はありました。

 

稲扱き2024

脱穀の時期は割と秋晴れが多くて、今年は良い稲扱きができたと思います。とは言えこちらは気温の低い地域ですから自然乾燥に適しているとは言い難く、外のハセで15%まで水分を下げるというのは厳しいですね。三陸沿岸部とかで遅くまで掛けている風景を見たりしますが、長期間掛けていれば干せるだろうと思われますが、そうもいかなくて、特に11月に入って冬型の気圧配置になってくると、気温も低く小雨が多いぐずついた気候になってきます。籾の水分も下りはしません。10月中の取り込みは必須です。

 

ハウス稲の脱穀2024

そんな地帯ですので、この18間のハウスにも稲を掛けています。4mパイプ4段2連結が2列です。麦の乾燥の時は夏だし真ん中にもう1列作りますが、秋の稲の時は風通しの悪くなる中央部は設置せず2列で行います。それでも4段の下から2・2・1・1の束を掛けますし、ハーベスタに付けているメッシュのコンバイン袋ですが、ここから8袋穫れました。

 

わらカッター2024秋

外に干した通常の稲の脱穀後のわらは畜産農家さんに持って行ってもらいます。そしてこのハウスに掛けたわらについては、わらカッターで田んぼに戻します。ハウスには亀の尾を掛けていましたので、背も高くて効率が良いです。この意味でも長稈品種は助かります。ただ、このわらカット作業は結構体力を消耗します。通常田んぼは水を張っていて平面であるというイメージがあるかもしれませんが、それは慣行の農薬を使う人の田の話で、われわれは何度も除草機かけで田の中を歩きます。長靴の足跡で条間はボコボコになっています。なのでバインダーで刈る時もぶれそうになる動きを制御しながら刈っていきますが、バインダーはエンジンで走行します。このわらカッターは自走せず、エンジンは藁を切断し飛ばすための動力です。タイヤは一輪車に付いているようなタイヤで、自分で押して動かすので、これでわらを田の中で均一に散らかるように移動したり角度を変えたりして飛ばすのは結構力がいるのです。ちょっとした長靴の凹み跡でももう前進できません。むしろ移動は引っ張ることで行います。小さめの田で2枚に散布しました。ハウスに掛ける稲は5〜6アール分の稲なので、わらの量の入り具合は薄めになりますが、やはり毎年少しずつでも田んぼに還元したいものです。ハセ掛け栽培は稲わらを持ち出してしまうので。。

 

小麦の中耕除草

天気の良い日には小麦畑の中耕除草をします。今年は40cm間隔で播種しておりましたが、管理機とちょうど合っているようです。秋のうちに一度こうして除草しておくことは大事です。雪解け後の5月頃にも2度目を行いますが、やはり雪の押されて土も硬くなっていて、それほど綺麗に土が飛んでいかないのです。

 

南部小麦10月27日

10月27日の播種後約1か月後の南部小麦です。今年の秋は高温傾向だったため、秋に植え付けをするこの小麦やにんにくはとても生育が旺盛です。いつもとは違います。ああ、同じ岩手でも東北でもここより気温の高い場所は多いというかほとんどなので、みんな当たり前のように秋にこれくらいの生育になっているんだ、とつくづく感じます。こちらではそれが今年限りのラッキーな状況だということですかね。小麦の場合寒冷なのは悪いことじゃありませんが、早い根雪で年内の生育が早く終わり、遅い雪解けで春の再開が遅れることは結構ではありません。要するに雪がネックになるのが小麦栽培で、春先の雪腐れ病も原因は雪です。

雪腐れ病の対策は、連作をしないことと積雪前の年内の生育をしっかり充実させること、のようです。小麦と輪作できるのはにんにくくらいですが(あとは玉ねぎとか)、小麦と同じ面積のにんにくを交互に作付けするわけにもいきませんし、小麦の連作になってしまいます。そこで刈り取り後と次の播種の前の2か月余りの間にマメ科である緑肥のクロタラリアを栽培し、ある程度生育したところをトラクターですき込んで腐熟化し、小麦を播種するという形をとっています。マメ科を挟むことで連作の回避の意味と緑肥のチッソ分補給の両方を兼ねるのです。また、今回は、南部小麦よりも晩生であるアリーナの方を先に播種しました。ヨーロッパ原産のアリーナは南部小麦よりも雪腐れに弱いです。これは他のライ麦とかスペルト小麦などヨーロッパ小麦にも言えることで、まだアリーナは良い方ですが、それでも南部よりは危険なので、年内の生育量をしっかりキープするためには、早く蒔くということが大事になってきます。

前回も書きましたが、小麦播種は稲刈りと重なります。天気が良く土が乾いている時は稲刈りよりも小麦播種を優先します。ちょうど田植えが代かき後雑草の種が動き始める前に早く行うというのと同じで、小麦畑を耕耘ししかも土がこなれているうちに素早く播種を行う、できれば耕耘当日か翌日に、というのが鉄則になります。

 

焼石岳

いまはそんな激しかった繁忙期も終わり、一段落ついて秋仕舞いの時期になりました(とはいえ今度は雪の心配をしながらで、決して楽な時期というわけではありませんが)。それもごく最近からですが、ちょうど稲刈りが終わって、稲扱きにはまだ時間がある10月17日、かねてから計画していた焼石岳への紅葉登山をしてきました。

焼石岳はここ西和賀町に接する南本内岳から縦走すれば近いんですが、一般向けのコースじゃないので、初めてのコースで一人登山ではちょっと抵抗があり、ぐるっと胆沢ダムの方へ回ってから中沼のコースで登りました。胆沢ダムから登山口までの林道は結構な悪路でスピードも出せず、しかも紅葉の時期なのでもし駐車場が満車だったらどうしようとの心配もよぎります。その意味でその直前の3連休は天気が良かったものの入山はやめて農作業に専念し、新米時期限定の早期脱穀を行い新米を準備することができました。17日は紅葉もピークの好天の日でしたが、平日だったため、駐車場が満車ということはありませんでした(朝7時頃到着で3〜4割の駐車あり)。

 

中沼

地元じゃなく胆沢ダムからのコースにしたのは、紅葉の池を見たかったというのもありました。登山開始からすぐの中沼です。

 

上沼

やや進んで上沼。ここも素晴らしい紅葉です。

 

銀明水避難小屋

避難小屋があります。銀名水という湧き水のところです。避難小屋ってとても魅力的です。前にも書きましたが、予約も要らず値段も安い(あるいは無料)。2段ベッドが組み込まれてあってシュラフと食事の準備はもちろん必要ですが、快適に休めます。そんなに混むこともない。ただ、この場所は登山口から2時間くらいだし、焼石岳自体が日帰りの山ですので、よほど想定外のトラブルとかがない限りはなかなか利用する機会はなさそうです。6月に訪れた朝日連峰の以東岳の避難小屋は山頂近くで、大鳥池のコースで登山口から6時間。早朝に家を出て9時頃から登り始めて到着は夕方。ちょうど良い場所ですね。この以東岳も日帰りする客がいて、かなり強行になります。そのような方は前夜とかに登山口まで乗り入れて車中泊し、早朝から登り始めて日帰り登山をするのですが、そういう山行をするよりは、私は早朝に家を出て、そして山中で小屋泊をする、ということに惹かれます。人の多い関東の有名な山ではなかなかできませんが、東北の静かな山だからこそ、避難小屋を使って夜も昼も山を楽しみたいものです。

 

銀明水

こちらは銀明水という湧き水です。昔からある名水のようですね。中央に見えるパイプ?のようなものはなんでもなく、石の左下から流れてくる水をその出口の箇所で掬って飲みました。よくわかりにくいですが、木の踏み台みたいなものの右側は水の流れになっています。帰りに2L汲んで家でコーヒーや米の水に使いました。

全くの余談ですが、9月のNHK交響楽団の定期でブルックナー8番の「初稿」での演奏会があり、FMとテレビ番組とで放送がありました。指揮は現在常任のファビオ・ルイージです。今年は生誕200年ですしね。ビッグイベントです。

ビックリです。大学1年の頃から40年以上聴き続けてきた8番の初稿がこんなだったのか、と。1楽章の終わりが何と大きく盛り上がって終わるし、3楽章の頂点部ではシンバルが3連打!! 個人的にはここでシンバルが入らないハース版よりも1発大きく鳴るノヴァーク版の方が好きでしたが(その後でもう1発入りますが)、3連打は驚きでした。ノヴァーク版が好みというよりは、オイゲン・ヨッフムのブルックナーが好きだったことによります。いや、でもこの初稿は一番好きかもと思いました。発表後も改訂をくり返すことの多かったブルックナーの交響曲ですが、誰の意見に左右されず、まだ自分の完全な好みで描かれた初稿ですから、最もブルックナーらしさに満ちていると言えます。ブルックナー8番はやはり私には松本市での大学生生活の空気感がまとわりついています。10月になれば空気もぐっと下がってきて、湿度もなく、とても稲がよく乾きそうな。そういうヒヤッとした感覚が蘇りました。

しかし最近は、どちらかと言えば5番の方が好みになっています(私の趣味など別にどうでも良いことではありますが、5番には着目してもらいたい気持ちです)。2楽章も美しくて好きですが、やっぱり終楽章のコーダの部分が凄いですよね。ここの金管セクションはものすごい体力を消耗するそうです。金管が旋律を強奏し、弦楽器は完全に伴奏のリズムを刻みますが、この伴奏もまた良いんですよね。最近「カケルクラシック」という毎回ラジコで聴いている番組にゲスト出演した、NHK教育ピタゴラスイッチで有名な「栗コーダーカルテット」の一員の方が、自らの思い出深い演奏として東京カテドラルで行われた朝比奈隆の5番を挙げて、そのコーダ部分が放送で流れましたが、これもまたテンポも雄大で迫力でした。あまりに凄い演奏で、終演後誰も拍手を打ち鳴らせず沈黙が続いたそうです。オケは大フィルでなく東京都響だったように思いますが、CDで見つけることはできない特殊な音源なようでした。5番も朝比奈、ヨッフム、チェリビダッケの3人のライブ録音をよく聴いています。東京へ上京した最初の年に朝比奈/大フィルの8番を東京文化会館で聴き、バチバチと照明がショートする銀座線に乗って三軒茶屋から上野まで行きましたが(外苑前で乗り換えだったか)、その時は比較的早いテンポで進んでいましたが、生まれて初めての生の8番は感動的でありました。これが唯一の朝比奈体験でした(ハレー彗星の来た1986年です)。ちなみに、8番のヨッフム/バンベルク交響楽団の東京公演は大学生の頃に帰省中の広島でFMの生放送で聴き、これも凄い名演で、わなわなと震えました。NHKホールだったでしょうか、CDで持っていますが、私には8番のベストの演奏です。最後の3音の微妙にためながらの終わり方にもしびれました。東京へ出た年には、朝比奈だけでなく、実はヨッフムも来日していました。しかも確かすぐ近所の昭和女子大学人見記念講堂へ来たのに。。お金がなくて行けませんでした。まだサントリーホールができる前で、この人見記念講堂が日本のベストのホールとされた時期です。ブルックナー7番だったと思いますし、CDにもなっています。まだ未購入ですが、聴きたいですね。

後に、サントリーホールには出版社にいた頃にマーラーの「大地の歌」を聴きに行きましたが、オーケストラの大音量で歌い手の声が掻き消えた箇所があり、それは少し残念でしたが、マーラー自身この曲を耳にすることなく亡くなってしまっているので、オケと歌手の音量のバランスがわからなかったのかもしれませんね。オケの編成は確かに大きかったと思うので。

NHKホールにもよく行きました。1,000円の当日券D席で、会社を早めに退社して、確か6時頃から当日券発売だったような。。コンサートでは珍しいマーラーの3番や、記念碑的な8番もここで聴きました。両曲とも10年に一度くらいの稀なる演奏会ですね(地方では皆無で東京でですね)。マーラー8番の「千人の交響曲」を聴く機会など一生に一度でしょうから、貴重な体験でした。神保町の洋書屋さんでレクラム文庫版の「ファウスト」原書を買って、8番の歌詞を追ったものでした。最後の「hin an!」「上へ(天上へ)!」のラスト、懐かしいです。タムタムが一発荘厳に鳴り響き、終結する。この初演の時は当代の作曲家や指揮者はむろん、ホフマンスタール、シュテファン・ツヴァイクやトーマス・マンも会場にいたという話です。音楽のイベントが歴史的事象になった出来事と言われました。このマーラーの8番、出だしも強烈で、「Veni creator spiritus」(来たれ、創造主なる精霊よ)、でいきなり有無を言わさず引き摺り込まれるわけですが、当時就学以前の幼少の子どもたちに冒頭を聞かせながら、この意味をどうやって教えよう、「おいで、世界を作った妖精さん」で始まるんだと伝えたことも、懐かしい思い出です。

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早池峰山登山日記

ハヤチネウスユキソウ

岩手県へ移住してから、早池峰山はずっと気にかかっていた山でした。岩手山は知らなくても早池峰はご存知という方も多いかと思います。神楽とか神社とかと結びついた独特の雰囲気を持つ山ということはひしひしと感じておりましたし、ハヤチネウスユキソウがまた有名で、これを目当てに多くの登山客が訪れます。

ハヤチネウスユキソウは7月に開花期を迎えます。今年は何もかもが前進傾向でしたので、6月後半には開花の情報も見られるようになっていました。前回の大鳥池と以東岳の登山で今年は終わりかと思っていましたが、どうしてもこの7月は逃したくなくて、去年と同様に梅雨前線がま上に来て雨続きの秋田岩手ですが、貴重な晴れ間を狙って、平日の7月16日火曜日に出かけてきました。投稿が遅れてタイムリーではなくなってしまいましたが、現在はお盆出荷用の切り花りんどうの出荷に追われていて、かなり前の感覚になってしまいました(りんどうの開花も前進しており、お盆の最中にはなくなっていると思います)。

 

河原の坊駐車場

夏は土日祝日はかなり手前の駐車場(岳という場所)から走行が規制されるため、河原の坊駐車場(キャンプ場)まで乗り入れができる平日を選んで向かいました。朝4時半に家を出て2時間、河原の坊には6時半時点で4割くらいが埋まっていました。一番心配なのは、遅くなり登山が遅れるということよりも、駐車場がもし満車だったらどうしようかという不安でした。確かにもし満車だったら、どうすればいいんでしょうか。。

 

小田越登山口

河原の坊駐車場で朝食や歯磨きなどを済ませ、舗装路を登山口まで歩きます。35分くらいでしょうか。それなりに傾斜もあり標高を上げていくのがわかります。そして登山口である小田越に着き、ここからが登山開始です。そもそもここには駐車場がないために、夏の交通規制に関係なく、ここまで歩いて来なければなりません。タクシーとか車から降ろしてもらう人はここで降りてすぐ登山開始ですが。。

 

早池峰5合目

五合目まで来ました。小田越から山頂まで2時間くらいの行程で十分に日帰り登山の山ですが、この辺りから巨岩の上を歩くという感じで、傾斜もあり、歩きにくさはレベル高めです。

 

ハシゴ

大きな一枚岩を梯子で登ります。

 

早池峰山頂

そして山頂へ。こうした山の雰囲気は、やはり信仰や神社とかの習俗を身にまとった山と思わずにはいられませんね。

 

早池峰山頂2

わかりにくいですが石仏も見えます。オレンジの祠(ほこら)には神様が祀られているのでしょう。

 

早池峰剣ヶ峰

さて、大半の登山客はそのまま往路を引き返して下山するのですが、せっかくなので早池峰の東側に位置する「剣ヶ峰」を縦走することにしました(剣ヶ峰往復で1時間20分くらい)。最初のハヤチネウスユキソウの写真はこの縦走路の前半部分の岩稜地帯で撮影しました。3〜5本の群れが点在するという形になっていて、カタクリのような群落ではありません。岩場は剣ヶ峰へ向かう前半のみで、後半は土にハイマツ地帯となっており、ウスユキソウはありませんでした。早池峰への登山コースでは登山道とお花地帯はロープで区切られていて、ウスユキソウを間近に見る番所は少なかったと思います。こちら剣ヶ峰稜線ではまさに歩く足元にあちこちに咲いていて、しかも見頃の花たちでした。

 

これもウスユキソウか

再び早池峰登山道に合流し、下山します。同じような花が咲いておりますが、これはハヤチネウスユキソウではないのですかね。あるいはウスユキソウが花期が過ぎた状態でしょうか。。

 

早池峰の花々

これらが今回出会った7月の花たちです。

 

靴とポール

最新のトレッキングポールに30年前の登山靴です。去年月山に出かけた時に多くの人がポールで登山していて、先月の以東岳の折に通販で買ったものです(3千円)。確かに登りも下りも腕の力が添えられて楽でしたし、転ばぬ先の杖にもなりました。大きな岩の乗り越えや梯子の昇降の時は邪魔にはなりますが、時間的にはわずかです。靴の方は、巣鴨の辺りの「goro」というオーダーの登山靴屋さんで買ったものです。今回、キャラバン社のソックスを購入し、履いてみました。素晴らしいフィット感で、以東岳の時に感じたつま先とかの痛みが一切ありません。登山用の靴下(中厚というものでしたが十分厚みがありました)、とても大事です。キャラバンといえばキャラバンシューズで有名ですね。18歳の頃、北アルプスのお膝元松本市にいて、登山用品をいくつか買いましたが、最初はみんなキャラバンシューズです。男子は灰色、女子はピンク色です。土踏まずの部分に滑り止めの金具が付いていました。今は全く見ることがありませんが、良い靴でしたね。当時で5千円くらいだったと思います。当時というのは40年前です。

ところで、30年前の登山靴、革の感じはとてもよく、下山後はミンクオイルとかで保全はしておりますが、靴のソール部分は大丈夫なのかと、ふと気になりました。早池峰小田越コースはほとんど岩場で、岩自体、多くの登山者に踏まれてテカテカしていました。見るからに何となく滑りやすそうと思いましたが、30年前のソールで今後も大丈夫だろうか、少し調べてみた方が良さそうに思いました。いずれこういう登山靴で歩いている人は全く見かけませんね。。確かに重いです。

 

救助ヘリ

だいぶ登山口まで戻ってきた頃に、麓の方から救急車の音が響いてきて、また空にはヘリが現れました。同時に消防隊が数名のグループで5組くらいすれ違って登っていきました。総勢で20名くらいでしょうか。山頂で動けなくなっている人がいるらしく、ヘリも来たのだが山頂付近はガスってて近づけないということで、しばらく滞空していましたが、撤退していきました。確かに剣ヶ峰から登山コースに戻った時間帯、下からガスが立ち込めてきて、涼しい冷気を感じていました。標高の低い下山路は天気は良かったですが、山頂付近は確かに見えません。

早池峰登山の半分以上は岩場です。上の方に土はありません。岩100%の急な斜面で転倒すれば、骨折の可能性も大きいし、そうなれば自力で降りられず救助を頼むしかありません。トレッキングポールは確かに有効と感じました。早池峰の山頂は人も多く安心感もあるでしょうが、剣ヶ峰の方だったら人は少ないです。幸い、山の稜線上は多分どの山でも携帯の電波はありますので連絡は取ることはできますが、稜線じゃなければ、だいたい圏外のことが多いです(以東岳の時も大鳥池の辺りは全くの圏外でした)。こういう可能性も考えて登山しなくてはなりません。夏の日の長い時だから良かったですが、救助が登って行ったのは午後3時前でした。10月とかであれば1時間後にはに日没ですね。ちなみに、消防隊員はポールは使わずに登っていました(人を運搬するという目的からも当然でしょうか)。

そして、早池峰登山後、天気はずっと悪く、特に24日からの1週間は大変な雨量でした。秋田から山形へのよく通る地域では大規模な被害が発生し、去年の月山や今年の以東岳の際に通った戸沢村も最上川の氾濫が起き、残念に思います。娘が山形市に住む以前には、冬の長野出張の折に、この最上川を鶴岡まで降って、日本海経由で長野県に向かったものでした。山形県の海沿いにある「あつみ温泉」など、いつか泊まってみたいと思いながら通過していました。当園のタラノキの品種「あすは」は山形に入ってすぐの真室川の育種家より分けてもらったものですが、この真室川も被害が出たようで、駐在所の警官の方も勤務中にパトカーごと流されてお亡くなりになられて、とても痛ましいことでした。

大雨の直前の23日に、前日22日に刈り取ったアリーナ小麦跡地の耕耘と緑肥播種を行い、そこまではギリギリ間に合ったものの、その後の大雨続きで発芽不良が目立ちます。出荷がいま盛りのりんどうも、特に白の品種で雨による花の腐りが目立ち、今年は減収は避けられません。春からの草取り椅子(タイヤ付き)に座っての延々と続いた1株1株の芽かき&草取り作業ですが、多雨によりあっけなく無効にされてしまう、悲しさです。にんにく畑も、冬の間に杉の枝葉で詰まった水路からの溢れ水で畑一面が2か月間冠水し、大半が腐れて消失するという残念な結果になっていて。。。いまのところ稲のみが頑張って生育を続けています。これまでの高温傾向によって、稲には良い夏となっています。が、まだいもちの発生には警戒を続けなくてはいけませんし、いずれこれ以上の雨はもう不要です。去年は夏場に田んぼがとても乾き、水を入れればそれは済むことですが、その反動で稲刈り時期に雨続きとなり、稲刈りがなかなかできず参った秋になりました。とはいえ、田畑が大規模に冠水し収穫が不能になった山形・秋田の農家さんも多いかと思い、本当にお見舞い申し上げます。

今日から8月ですが、まだ梅雨明け宣言は出ません。ぐずついた気候ということで最高気温もせいぜいが28℃、最低は19℃という感じで、酷暑の南日本に比べれば快適なのですが、とにかくお日様が見たいです。

余談ですが、7月19日には、3月のうちからチケットを買っておいた仙台フィルのコンサートに長女・長男を連れて行ってきました。場所は日立システムズホールというホールで、曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第20番とマーラーの交響曲第1番など、です。ピアノ協奏曲自体、もしかしたら初めてだったかもしれません(東京時代にN響定期によく通いましたのでその時聴いていたかもですが)。ピアノの小山実稚恵は特に東北ではよく知られた人で、長大なカデンツァも見事でしたし、この曲もモーツァルトのピアノコンチェルトの中でとても人気の高い名曲です。マーラーの「巨人」は何度か聴いておりますが、今回左の方のかなり前の席で、ハープの音がよく聞こえました。指揮者の広上淳一さんも人気の方ですね。プログラムといいまた演奏者もすばらしく、チケット完売で当日券なしという盛況も理解できます。演奏会自体かなり長時間で、終演は21:30となり、このホールの近所の人気の「中華飯店」での食事は諦めましたが、贅沢な一夜となりました。

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30年ぶりの大鳥池の山行

大鳥池

まだ農閑期だった頃に、東京にいた時にツーリングで訪れた東北地方の行程を記憶の中でたどり返しながらGoogleマップで確認したりしていました。当時訪れた朝日連峰の「大鳥池」が気になり始め、いろいろ検索していたところ、大鳥池からさらに進んだ「以東岳」の新しい避難小屋が何となく魅力的に思われて、そちらを利用しての1泊2日の山行を春先から計画して下調べ準備をし、そして先週6月20・21日に行って来ました。

梅雨入り前の最後の好天だなと分かっていましたし、週末になれば山も小屋も混むだろう。6月の山は基本的に盛夏よりは人も少ないし、残雪あり、新緑も鮮やかで登山のベストシーズンかと思っています。アブとかの虫もまだですしね。熊の危険性が高いのは繁殖期である6月だという心配はあるのですが。。また盛夏になればりんどうの出荷やら次の小麦やにんにくの畑準備で忙しくなりますし、ちょうど田植えや新しいりんどう苗の定植が終わり、りんどうの芽かき作業や草取り、そして草刈りとか田の除草といった、延々と際限なく続いていますが、とはいえ比較的待ってもらえる作業時期であるいまこそ、農家には登山のチャンスであります。

朝4時半に家を出て、途中朝食や歯磨きなどをしながら9時半に登山口である泡滝ダム駐車場に到着し、靴の履き替えや荷物の最終梱包を終えて10時前に大鳥池に向け出発しました。

当地西和賀町からだと、秋田県横手市を経由して国道13号を南下し、ほどなく山形県入りしますが、山形最北の町真室川町から斜めに酒田・鶴岡方面へ進み、最上川沿いに西へ進んで、酒田市の手前で南下して朝日連峰へ至ります(山形に入ると市街地を通らないし、コンビニが頼りです。時間帯的にも。。)。

 

大鳥小屋(タキタロウ山荘)

かつて30年前の時は東京からオフロードのバイクで関越道で新潟入りし、村上市の辺りから三面川を遡る朝日スーパー林道を走って、途中テントで1泊もしましたが、同じくこの泡滝ダム登山口にバイクを停めたのだろうと思います。そこは変わるはずはありません。が、全く記憶にはありませんでしたし、大鳥池までの3時間の登山も、全く憶えていませんでしたね。天気が悪くカッパを着てたことは覚えていますし、大鳥小屋(タキタロウ山荘)前で写真を撮った記録は残っております。

最初の写真のように大鳥池はとても美しく、岸辺からのぞくと小さい魚が泳いでいました。タキタロウの稚魚でしょうか。大鳥小屋に泊まって釣りをする客が多いという話でしたが、平日もあって行きは釣り人は見ませんでした。帰りに再び池まで降りて来た時にルアー竿を持った若いカップルと行き違いました。ここはどうやらルアー釣りがメインのようです。いずれ釣り目的でも登山口から3時間ですから、ちょっと釣りに、というわけにはいかなそうです。

午後2時頃、その池から以東岳を目指しましたが、これまた3時間、しかもかなりの急登で、しんどかったですね。今回、最近の傾向であるトレッキングポールを購入し、使用しました。2本組のもので、去年の月山登山でよく見かけ、気になっていたものです。30年前の登山をしていた頃はあまり使っている人はいなかったと思いますが、近年は半数以上の人が使っています。初めて使ってみて、やはり楽でした。大きな岩をよじ登って乗り越えていくような時は直接岩に手を付いて体を持ち上げるので、その時は邪魔になるわけですが、それは時間的にごく一部ですし、かなりの急な坂もポールで踏ん張れて、転ばぬ先の杖にもなり、使用して良かったと思いました。

 

以東岳避難小屋

登り始めが10時頃でしたし、結局夕方5時半の到着になってしまいました。2017年10月に新築されたとあり、とてもきれいで好感が持てる以東岳避難小屋です。屋根の形など、わが家に似てもいます。山小屋へ泊まるのも30年以上ぶりで、現在の事情はよくわかりませんが、確かどこも予約が必要で、宿泊費も食事があるものの1万円近くかかるのではと思います。なかなか手が届きませんし、それに比べて避難小屋はシュラフや食料・調理器具は必要ですが、自由だし、安価です。今年からは2,000円(去年までは1,500円だったようですが)の「協力費」を木箱に支払う形です。天気の良い日に思い立って山行を決める者にはありがたい存在です。

お一人、先客の利用者がいらっしゃいました。若いけれど山慣れた方で、30年ぶりの私にいろいろ教えてくださいました。飯豊・朝日連峰を好んで登られており、茨城のご自宅から何時間もかけて車で登山口に来るそうで、私の4時間半よりもずっと時間をかけていらしたようでした。小屋に電気はありませんし、その方のランタンを窓辺にぶら下げて、お話をしました。

翌日、以東岳山頂から大鳥池へ下山する途中に、昨晩大鳥池(タキタロウ山荘)へ宿泊されたという登山者から、以東岳小屋の明かりがキラキラしていて、満月(に近い月)と相まって美しかったよ、と聞きました。月の光が窓に反射しているのかと思ったそうで、いや宿泊者のランタンだと説明しました。

 

以東岳からの日没

西の日本海の方面を見ています。小屋の窓からの夕日です。宿泊した方は、佐渡が見えたと言っていましたが、この時はよくわかりませんでした。山形と新潟の県境付近、山がとても深いです。この深さはとても魅力です。私の住む西和賀町も奥羽の深奥部で山が深いです。ただ景観上周囲が山に囲まれてある、というのではなく山塊の面積が広いことに魅力を私は感じます。

毎年この時期に、多くある避難小屋を利用して朝日連峰へ来ようと思いました。娘も山形市におりますし。そうなると、今回30年ぶりに、破れたりチャックが壊れかけていた50Lザックを新調しなければ、で、検索だけはして楽しんでいます。シュラフがかさばるので大きめのになりますね。安く買えそうなワークマンでも登山関連用品を探してみましょうか。。

飯豊連峰も良いですが、さすがにうちからは遠いんですよね。まず米沢まで出るのも大変で、山形大学では2年目に米沢市の工学部に住所を変えることを「渡米する」と言うそうです。飯豊山麓の小国町は西和賀町と気候も似ていて、同様に地理的に深いです。基督教独立学園も独特ですね(冬の寒天帰りに来訪し、ブログ記事でも取り上げました)。

 

以東岳山頂

翌日に以東岳へ登り、大鳥池へ下山しますが、行きと違う「オツボ峰」縦走コースで降りて行きました。以東岳から見る大鳥池は熊の毛皮のような形です。西の日本海方面を見た写真です。

 

月山と雪渓

昨年お盆過ぎに月山に登りましたが、稜線から、雪渓の向こうに美しい姿を見せてくれています。月山の方が以東岳よりも高そうですね。

 

以東岳の花1

花もいろいろ咲いていました。左のピンクのゆりは東北に固有の花のようです。その「ヒメサユリ」と、右はチングルマでしょうか。高山植物の季節ですね。

 

以東岳の花2

シャクナゲと、色素のない花ギンリョウソウです。シャクナゲは全国的でしょうかね。岩手の五葉山にも多く群生していました。ギンリョウソウというのは銀竜草と表記され、初めて見ましたが、まるで宇宙の植物といった印象ですね。ちゃんと花も咲いているようですが、残念ながら花の中までは覗き込みませんでした。

 

以東岳のりんどう

なんと、りんどうがありました。早生系のエゾリンドウになりますね。背は低いです。1対か2対ほど8月頃に紫の花を咲かせると思います。ハヤチネウスユキソウも咲いてきたようですし、梅雨の合間を見て早池峰山にも登りたいです。ここは登山口まで2時間、山行は往復で6時間ですので十分日帰りで歩けます。

農園ではりんどうの「芽かき」作業を進めつつ、田の除草機かけに汗しています。まもなく除草機は5回目をかけて終了し、あとは手取りで株ぎわのヒエとコナギを他の作業の合間に除草します。また、にんにくの収穫時期になっていて、ホワイト六片から掘っているのですが、今年は冬の出張中に杉の枝で詰まった水路から水が溢れ出してにんにくと南部小麦の畑が冠水していて、大半が消失してしまいました。かろうじて種にするりん片は確保できそうですが、今年はホワイト六片と八木が少量ずつで、個別に毎年ご注文いただいている方のみに供給させていただいて、サイトを使っての出荷はできそうにありません。とても残念ですが、来年、どうかまた宜しくお願いいたします。

 

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キリシタン殉教地を見学

大籠キリシタン殉教資料館

2か月に一度ほど整形外科で県立中央病院に通っているのですが、その日は買い物や(ホームセンターとか)興味ある場所への旅を兼ねて過ごすリフレッシュの1日になっています。今回5月31日、以前よりGoogleマップで見つけて気になっていた、一関市・旧藤沢町の「大籠」という地区にある「大籠キリシタン殉教公園」へ見学に行って来ました。説明はつかないのですが、キリスト教に関する古い遺跡・文化遺産を知ると訪ねたくなります。「マリア観音像」という遺物が同じく一関市の東山町、幽玄洞のそばにありまして、2007年に訪ねた記録がありますが、当時は写真には撮りませんで(カメラを車に置いたままにしていたのでしょう)、昨年再び訪れた時には、残念ながら危険防止ということで立ち入り禁止になっていました。また長野県にいたこの冬にも木曽の奈良井宿を訪ねた時には「マリア地蔵」という古い石仏を見る機会があり、記事にも書かせていただきました。いずれも隠れキリシタンの歴史に関わる遺跡になります。観音像やお地蔵さんに聖母マリアが重ねて表現されていて、それが全国にわたって

資料館ではまず10分余りの映像を見せてもらい、この大籠キリシタン殉教の全貌をよく知ることができます。そしてとても貴重な遺品の数々が展示されてありました(撮影禁止でお見せすることはできません)。キリスト像や、母子像、珍しいものでは厨子本(ずしぼん:雑誌の中にキリストの十字架像が挟み込まれている)、デウス仏、馬頭観音像、キリシタン鍔(刀のツバのこと?)など、興味深く見学しました。

 

大籠キリシタン公園階段

ここ藤沢町の大籠地区では戦国時代の頃から「たたら鉄鋼」が行われていたそうです。私も20年近く前に県内数か所の市町村の合同での研修会で、たたら製鉄を実際に体験したことがあり、岩手では各所で製鉄が行われていたのでしょう(釜石のような鉄の町がある県ですから)。まさに「砂鉄川」という川が「猊鼻渓」で有名な東山町(先のマリア観音のある町)にありましたし、砂鉄を集めて土を盛った釜で製鉄した工法がたたら製鉄と言われます。大籠では、その製鉄の技師を岡山県から招いたのですが、その招かれてここで製鉄を指導した兄弟がキリスト信者で、その兄弟を通じてキリスト教がこの地区で普及していったらしいです。ここはほとんど宮城県との県境地域で、管轄は伊達藩、伊達政宗の時代になりますが、政宗自身はキリスト教に寛容であったらしいです。が、だんだんと幕府による締め付けと迫害が厳しくなっていき、この大籠でもやがて隠れキリシタンが踏み絵の強要や拷問に遭い、結果、当地で309人の信者が処刑されたと言われています。隠れキリシタンの処刑は各地であったわけですが、ここ大籠にこのような施設(ただ資料館があるだけではなく、複数の施設や遺物が含まれています)があるのは、やはり規模が大きかったのだということと思います。かなりの山奥の村なんですが。。

丘の上に「クルス館」(クルスは十字架の意味)という建物があり、そこに至るまで、下の資料館のところから309の階段があります。楽ではなく10分くらいかかった気がします。左はその登り口にある石像です。

 

クルス館前カリヨン

309の階段を登り詰めるとまずカリヨンが目に入ります。3時までは定時に鳴らすと書いてあり、もう4時になるところだったので諦めていましたが、4時の閉館時に鳴っていました(写真はクルス館のテラスから撮影)。カリヨンは去年、田沢湖からの秋田ドライブの帰りに宝泉湖のそばにもありました。

 

大籠・クルス館

こちらがクルス館という施設です。カリヨンの場所から撮った写真です。手前の岩にはローマ法王ヨハネ-パウロ2世からの大籠へのメッセージ文が記されています。

 

クルス館キリスト像

クルス館には舟越保武氏によるブロンズ像が設置されてありました。右はマグダラのマリア像です。マグダラのマリアはイエスの熱心な信者で、ゴルゴダの刑場にもいてキリストの死に立ち会っていた女性ですね。

 

大籠・地蔵の辻

資料館から車で県道まで戻った合流店にある「地蔵の辻」と呼ばれる処刑場です。最も多くの信者がここで殺されました。

 

大籠・上野

こちらは「上野刑場」と呼ばれこちらでも多くの信者が処刑されたと伝えられています。北西へ車でしばらく進んで下車し、見ました。

 

大籠カトリック教会

その上野の近くにある大籠のカトリック教会です。こういう建物を見ると心が落ち着きます。静寂でした。

 

大籠キリシタン殉教公園マップ

キリシタン殉教に関する大籠地区のマップです。左側の公園の図にある通り、クルス館に登る直進の階段は結構きついので、ジグザグの緩傾斜の巻き道(図中の「歴史の道」)も設置されてあり、ここにはその舟越保武による「十字架の道行」と名づけられたレリーフ(彫刻)を写した石板14あり、十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かうイエスの最後の場面が描かれて設置してあります。広域図の方の道路の右下は気仙沼へ至る方向、左上は一関市に向かう方向になります。このマップの大きい写真もこちらに掲載しますので、よかったら文字を確かめてください。

 

気仙沼震災記念館

ドライブする時、できるだけ同じ道の往復は避けたいし、通常何か所かを訪れます。今回は病院の診察が早めに終わり、気仙沼へ直行し、お昼ご飯を食べた後、大籠へ向かう途上にある気仙沼市の震災遺構を先に訪ねました。

 

向洋高校3階の車

向洋(こうよう)高校という水産系の高校が遺構として残されていました。校舎の3階にまで車が流されて来ています。屋上にも上がりましたが、ここに避難して津波に耐えた先生や関係者たちもいたようでした(生徒は全員避難所に避難し無事だったそうです)。海側の水産加工場がこちらに流されてきて一部接触し抉られたところもあったようですが、正面衝突でなくて助かったとのことでした。先に訪れた大川小学校と違い、犠牲者は出なかったようでした。海岸から150mのこの高校への津波の高さは12mで、校舎4階まで達したそうです。

この後に大籠殉教公園へ向かい、閉館の4時までいて、その後県道沿いの遺物群を見学しながら一関方面へと帰路に着きました。ふと、末娘と以前訪れた館ヶ森アーク牧場のことを思い出し、こちらを経由して帰路に着いたのですが、藤沢町のこの辺り、とても農村景観が美しく、走るのも楽しかったです。アーク牧場も結構な山中にありますが、まだ観光農園として営業しているようでした。あまりCMもないので情報が少ないですが、畜産をベースにした農業者がそれを発展させて作った施設だったと思います。ラベンダーの時期にラベンダー染をやるということで出かけたのももう5年以上前ですかね。ここでは有機の小麦栽培もしていることを当時知り、前回は圃場も見て来ました。今回同じ圃場を訪れてみましたが、今期の作付けはなかったようでした。それからライオンのいるサファリパークを通過して一関へ出て、忙しく買い物をしながら自宅を目指し、午後9時に帰宅しました。大籠の殉教公園が16時に閉まるということで買い物などは後回しになりました。

現在は、りんどうの芽かき・草取り作業と新しい苗の定植作業、農道畦畔の草刈り、そして田の除草機かけを並行して行っています。もう1週間くらい経ったらタラノキ園のこの春にヒコバエから定植した苗に大豆粕肥料を与えつつ草取りをする作業を忘れないようにしたいと思います。今年も新しく4畝作ってマルチを張り、通路部分に生えてくるタラノキのヒコバエをスコップで掘って、新しい畝に植え付けする作業を終えました。今年伸びて来て植えたものはこの晩秋に収穫してたらの芽の穂木にすることはまだできませんが、来年の秋の収穫のための養成株になります。寿命が来て枯死する木も次々出て来ますから、畑を移動させつつ、毎年ヒコバエの植え付けで規模を維持することが欠かせません。できればやや微増させて出荷量を増やしたいところですが。。

これまでの好天の反動でぐずついた日々が1週間続いていて、寒いです。6月は何と言っても田の除草の月です。株間までは取れない従来式の3条除草機ですが、昔の機械と違ってエンジンを背負って行う背負い式刈り払い機に除草のアタッチを付けるタイプの除草機で田を歩いております。

 

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白神山地への旅

2024田植え(亀の尾)

5月はとにかく繁忙期で、好天の日は田畑から離れられず、特に今年のように作物の進みが早い年は、煽られるように作業を後手後手で進めているという感じです。連休の頃からあっという間に月末へ。。5月20日よりも以前に田植えをしたのは初めての経験です。急ぐ必要はないよと地元では平常心で田植えをやっていますが(もちろんみんな例年より早いです)、亀の尾やひとめぼれなどの晩生品種を作付けする者にとっては、早い田植えはめったにない千載一遇のチャンスと言えます。当園の稲にとっては、近年の夏の高温化の傾向はとてもありがたく、「高温注意情報」のようなニュースを聞くと嬉しくなります。しかし実際は大した高温でもなかったりするのが大半ですが。。とにかく低温は稲へのいもち病の警戒も伴いますし、暑い夏になってくれることを望んでいます。昨年の当地の最高記録が32℃で、もともと冷涼な土地であるからこそ言えることで、暖地に住まれる方には気が滅入る言い方だろうかとは思い恐縮です(18歳まで広島で過ごしたので、真夏のすさまじい暑さはわかります)。もっとも、8月のお盆に日中15℃の表示を見た三陸の海のやませのことを思えば、まだ恵まれているかもしれません。ふだんは三陸の方がずっと気温は高いですが。。

昨日25日で田植えから1週間経ち、除草機がけを開始しました。

 

鶏頭場の池

さて連休中は好天続きで農作業に勤しんだのですが、その直後から天気が悪く、そんなぐずついた5月8日ですが、白神山地へ旅をしてきました。東京で250のバイクに乗っていた時から、「白神山地」には神々しい憧れを感じていまして、その名前によるのでしょうが、1994年、5月の連休に新潟から日本海経由で青森まで走り、東北を一周して戻ってくるという4泊くらい?のツーリングをしました。全部テント泊でしたね。いまは軽トラであまり林道を激しく攻めることはできませんので、当時と同じルートではないのですが、当時は全く見過ごしていた「十二湖」に初めて向かいました。

去年田沢湖から阿仁森吉方面へ走行しましたが、このルートは秋田県内を北上する道として気に入っておりまして、今回も雫石・田沢湖・阿仁を経て能代市で海岸に出て、それから十二湖は割とすぐでした。

白神山地の山中にあるきれいな湖水群は魅力的でした。外国の旅行者もいまして、長野からの帰り道旅行の時でもよく見かけましたが、確かに車を持っていないだろうので、車道もひたすら歩いていて、バックパッカー風に見えます。いわゆる交通網の完備した有名観光地の大勢の外国客とは違った雰囲気で旅を楽しんでおり、私にはこうした人には好感を覚えます。

写真は駐車場(500円徴収されました)からすぐの「鶏頭場(ケトバ)の池」です。

 

青池

それからすぐに、一番有名な「青池」に着きました。いろんなアングルで写真は撮りましたが、どれも足元の木道が邪魔で全貌をきれいに撮ることはできませんでした。水の色はきれいです。

 

沸壺の池

そこから坂を登って「沸壺(ワキツボ)池」を見下ろしました。全貌が撮れまして、ここも美しく、良い感じです。左の方から沢が流れ込んでいました。十二湖全部は距離も離れていて歩きませんが、残りは車道で車から眺められます。ベンチがあった場所で昼を食べました。去年八幡平を歩いた時(ドラゴンアイの時期)にも感じましたが、なかなか弁当を広げる場所というのはありそうで難しいものでした。本当の登山なら悩むことはありませんが(臭いを撒き散らし熊を招かないことには注意です)、半分観光地のようなところでは人の往来もあるし、ためらいがあります。東屋のような場所があれば問題なく弁当を広げますがね。。

 

日本キャニオン

車に乗り少し下ったところで「日本キャニオン」という山肌が見える場所の展望台への道があり、10分くらい登って「日本キャニオン」を眺めてきました。十二湖そのものは観光名所であるものの、敢えてオプショナルでここを目指してくる人はこの時はいなかったようです。

 

千畳敷

そして日本海まで戻りましたが、能代から来る途中、やたら「千畳敷まであと○○キロ」という看板が多く、そんなに有名なポイントなら行ってみようかと、能代方面へ戻らず、鯵ヶ沢とかの方へ北上を続けました。この千畳敷というのは地震で隆起してできた現象だそうです。

 

ライオン岩とかぶと岩

左は「ライオン岩」で、右を向いて寝そべっている様子です。右は「かぶと岩」。

 

白神山地林道入り口

ここまで来れば弘前の方へぐるっと回って帰るしかなく、さらに北を目指しました。途中、白神山地を東西に巡る有名な「弘西林道」の入り口を見つけました。いまは「白神ライン」と名づけられているようですが、残念ながら通行止めでした。オフロードのライダーには聖地のような場所と思いました。

 

岩木山の菜の花畑

林道は通れず(これは事前に検索でわかっていたことです)、鯵ヶ沢から弘前へ向かい、途中に有名な菜の花畑へ立ち寄りました。バックに岩木山が聳えているはずなのですが、雲で見えません。この日はそれほど雨は降りませんでしたが、天気も悪かったのです。天気が悪いから出かけてきたわけで仕方ありませんが。。。

 

1994年白神山地付近

余談ですが、1994年5月3日に白神山地へ向かった時です。大館市の辺りから真北へ白神山地に攻め入ったのですが、左は雪で阻まれて撤退を余儀なくされた地点で、右はその後戻って今回と同じく能代の方へ一般道を走りながら、途中姿を現した白神山地の遠景に感動して撮影した写真です。5月の連休だから山道はまだ雪が残り通行止めなのは当たり前ですよね。当時はわからなかったんですね。

 

1994年追良瀬の林道と岩木山

また、この左の写真は直前に秋田県の森吉山の付近の林道を走った時です。ここからいったん大館へ出て、そしてそのまま白神山地へ突撃しようとしたのですが、結局能代へ遠回りになったという話です。右はその後に、翌日5月4日に岩木山を見ながらの1枚です。岩木山に至る前に「赤石川」に沿った道を走る写真がありましたので、今回と最終的には同じように北側から岩木山を対面した写真だと思います。ちょうど30年前の旅でしたが、この後に岩木山の麓の「嶽温泉」に入り、そこでタオルにものすごい温泉臭が付いて、バッグに入れずに荷台にゴム留めして走ったことをよく覚えています。そして、鹿角のストーンサークルを見て南下し岩手に入り、盛岡手づくり村の駐車場でテントを張ったことは、近所だけによく覚えています。そしてその後に仙台を目指し、名取川で最終テント泊をして、沿岸沿いにR6号を南下し常磐道で東京に戻ったと記憶しています。途中少し高台の道から福島第一原発を見た記憶もあります。初めて見た原発の姿は、原発だと理解はしましたが、初めての原発の光景で印象に残るものでした。

こういう昔を懐かしんでの追走の旅というのは歳をとった証拠かもしれませんね。ただ、あの時の記憶が深い層に沈着していて懐かしいイメージで浮かび上がってくるんですよね。6年前から冬に茅野市で寒天作りの出張をして、学生時代を過ごした松本に久々に訪れるようになってから、過去の訪問や滞在の地に焦点が当たるようになりました。もちろん、新しい初めての場所にもいろいろ出かけています。去年、不幸な骨折のあった岐阜・富山・佐渡の楽しい旅の思い出は、現在の月1度の軽トラ日帰り旅行のきっかけになってしまいましたし、去年は特に治療で北上の病院に通院する日はそのまま足を伸ばしてリフレッシュの旅に出る、という2次的な助長効果も招いてしまっていました。

今年は去年の骨折の招いた伸展腱の断裂縫合術を受けての通院がまだ時々あって、今度の予約はは31日です。今回紹介しました十二湖を巡る旅からまた繁忙期をやり過ごして、またドライブへ出たい気持ちが高まってきています。買い物もあり所用もすませますが、少し足を伸ばして釜石ラーメンを食べたり荒々しい岬を見たりしようかなどとGoogleマップを眺めてみたりしています。

 

 

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4月がスタートです

大川小学校壁画

4月1日、宮城県石巻市にある大川小学校の遺構を訪ねました。校舎が受けた津波の爪痕は凄まじく、衝撃を受けました。校庭の隅の方に卒業制作と書かれた壁が残されていました。銀河鉄道の絵や、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の文字を見ると、また強くこみあげてくるものがあります。子どもたちはそれほど深い意味を込めて書いたわけではなかったかもしれませんが、津波の犠牲になった子どもたちがいたこの事実が存在する以上、いま生きて暮らす自分もまだ決して幸福を感じることはできない。そのような打ちのめされる感覚です。「裏山」もその通り眼前にあり、最終的に皆が目指した「三角地帯」もすぐそばです。校庭は静かでしたが、13年前にここで50分の間、激しい葛藤やせめぎあいが繰り広げられていて、そして命が失われていった現場でした。現場の空間に実際身を置いてみないと理解できないことは多くあります。写真で見る遺構の姿とリアルな目の前にある姿はやはり違いました。

 

大川小学校建物入り口付近

学校は地区住民の避難先でもあったことから、発災後集まっていたのは小学生だけではなかったのですね。裏山に登り津波から逃げたいと話す教頭先生と、地区住民の代表と言うべき区長のそれに反対するやりとりがあったと記録にありました(ネットでの検索記事も含み)。本当にあの時の場面で、余震が続きしかも雪の舞う状況です。若くて登れる子どもを抱える学校の先生と、とても年寄りたちに山登りを強いることはできないと思う地元住民の立場の拮抗が想像されます。先生も、子どもたちだけでも裏山に避難にします、とは言えなかったのかと思います。「山へ逃げよう」と叫ぶ子どももいたのです。本当はそう言わなくてはいけなかったのでしょうが、津波はここまで来ない、というムードが全体にあったのですね。また子どもたちが山へ避難を始めれば、残る地元の年配者たちも不安と動揺を感じることは当然です。いろんな思惑が交錯する状況です。

どんな集落にもあり得る立場の違いの構図でしょうか。校庭に集まっていたのがもし小学生と先生だけであったなら、迷わずに裏山に避難していたと思います。でもいろんな人たちがいた。「多様性の尊重」などと言う言葉は吹き飛んでしまうような、命懸けだった状況と思います。自分の住む地区の区長や、また町長とかにこの《大川小学校の問い》を投げかけてみたいと強く感じました。でも、その実際にリアルな現場に遭遇しないと判断は出ないことと思います。

学校正面の入り口ロビーには花が飾られていました。暗くて見えにくかったですが、もしかしたら折り鶴の束だったかもしれません。

北上川の最上流域から、まさに河口への旅でもありました。

 

関谷洞窟住居跡外観

とはいえ、北上川沿いに下って来たのではなく、当日は大船渡へ向かい、そこを経由しての石巻への旅になりましたが、途中、大船渡で縄文人の住居跡であるとされる洞窟をGoogleマップで見つけたので、立ち寄ってみました。関谷洞窟住居跡という場所です。

 

関谷洞窟住居跡内部

奥の方まで行ってみよう、と思っていいた好奇心は、入り口に立ち入った時点でたちまちにして消失してしまいました。奥まで行けば100mくらいあるそうですが、絶対ムリ。この状況で携帯のライトだけで奥には進めません。第一、怖いです。道に迷って出て来れないかもしれないし、何者か、異なるものがいるかもしれません。もし5人くらいいて懐中電灯も持参していれば突入できたかもしれませんが。。写真の暗がりのところまですらも進入できませんでしたね。

次いで、石巻へ向かいました。この辺り、宮城県に至るまで無料の高速が整備されて、快適に走行できました。

 

ハウス完成2024

稲の種まきの時期が近づき、水稲育苗ハウスのビニールを掛ける作業をしています。左手首の骨折が原因で左手親指の伸展腱が切れてしまったその接合手術を受けて、まだ日が浅く、その接合箇所の再断裂の危険を医師から厳重に注意されています。ハウスのビニール張りをする前に、雪の重みで曲がってしまうため秋に外したハウスの下部の直管横パイプとジグザグ(ビニペット金具)を固定金具でパイプ本体に再装着し、次いで下から腰巻きビニール、前後の褄のビニール設置までを昨日、左手親指を気にしつつ行いました。翌日の本日4日、屋根とクルクルのビニールを張り、午前中でハウスの準備は完了しました。とはいえ、結構あちこちビリビリに裂けています。毎年強風は必ずありますから、ビニールもそう何年も持つものでもありません。前後や腰巻きなど強風を受けにくい部分もビニールが劣化してビニペットのジグザグがうまく装着できない(特に地際など)こともあり、毎年どこかのビニールを新調しているようなものです。来年はこの屋根ビニールが交換になります。午後は、たらの芽の出荷作業の後、破れた部分のビニールの補修を行いました。

取り外したパイプを装着するにも、そして次にビニールを掛け、装着したビニペット金具にジグザグ針金で固定していくにも、結構指の力を使います。せっかく手術でつなげた腱の断裂は嫌ですから、左手をかばいつつ、しかしやはり左手の指も使うんですよね。何度も腱は切れてないよね、と指を動かして確認しつつ、時間をしっかりかけて作業を遂行しました。屋根ビニール掛けはロープで引っ張る作業です。その後の黒テープでのビニール固定でも「結ぶ」と言う作業で指を使います。腱は切れていないだろうか心配でした。

少しでも手術後の回復の時間を設けるために、いまのうちに出かけるとか農作業外の用事があればそれを優先し、少しでも指を回復させて、農作業は後回しにしたい、まだ種蒔きまで時間はある。それが本音ですね。たらの芽作業に関しては、指への負担がなくて、こちらはとても助かっています。ギプスをした左手を使って電動テーブル鋸で穂木を駒木に切断する作業は苦戦しましたが、いまではすべて切断が終わり水槽に入っていて、芽吹きを待ち収穫をするのみです。ポケットマルシェで多くのご注文をいただいてありがたく思います。

雪解けまでもう秒読みの段階になっています。りんどうの畝が出現したら、とても忙しくなります。当面は稲の種まきを早く進めたいですね。当園は晩生系の品種が多く、早めの育苗開始が大事になります。培土を引き取りに行かなくてはなりません。そのタイミングで水漬けした籾の加温催芽を始め、ハトムネ催芽を行い種まきになります。