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長野からのゆっくり旅〜合掌造りの山里と佐渡の探訪

相倉集落合掌造り

恒例になっています冬期の長野県諏訪地方への寒天造りは今年は期間が短く、早めに釜の煮込みも終了したことから、めったにない機会ですし、少し寄り道をしてたっぷりと帰郷の旅路を楽しみました。普段の岩手からの行き帰りでわざわざ大回りをすることはないのですが、大体のコースは通行して来ましたし、今回は木曽から岐阜へ出て、高山から白川郷方面へと向かうことにしました。上は白川郷を見た後に、たまたま案内標識で見て立ち寄った「相倉(あいのくら)合掌造り集落」で、白川郷以上にすばらしい、この冬の一番の絶景フォトを撮ることができました。雪の山道を10分くらい登っての観測ポイントからの眺めは感動的で、日曜日でもあり観光客も結構いましたが、みんな感嘆の声を上げていました。あまりに美しく、大きいフォトもリンクで掲載しておきます。

相倉集落2なぜこのような光景に惹かれるんでしょうか。外国の童話の挿絵等でも見たことがあるような、田舎集落と背後に高い雪山の取り合わせ。世界に通ずるいわばやはり原風景で、心の底でえもいわれぬ何ものかに掻き立てられる感情でしょうか。。住みたいですよね。でも実際住めば、えもいわれぬ気持ちはなくなる気もします。

背後の山は白山と思います。岐阜へ入った時、白山は見たいと思いつつも、なかなかその全貌を眺める場所に恵まれず、高山から白川郷へ至る山道も谷間の庄川という川沿いを通るために眺望はそれほどよく得られません。河童橋から穂高を眺めるようには、白山は姿を現してくれませんでした。

それにしても高山から白川へ向かう国道は、往来も少なく、おそらくみんな高速を通るのでしょう。完全な雪道でしたので4駆をかけ、慎重に走りますが、荷台にテングサの煮カスを100kgくらい積んでいたので少し安定感はあったかもです。それにしても対向車が少ない。車と出会わない。12月31日の長野・愛知・静岡の県境付近の天竜川の感じです。もしかしてあと少しで白川郷というところで冬期閉鎖になっているとか?? そんな不安もよぎりました。それほど山奥の道でした。

あるいは高速を走っていたらもしかして白山は見えたのでしょうか? しかし上の相倉集落の背景にある山はどうやら白山の一部のようですので、少し安心しました。ちなみに、東京で勤務していた出版社のあった土地が文京区白山でした。それで白山の言葉により惹かれるものを感じていたのかもしれません。

 

帰雲城址

この庄川沿いに走る道路脇に、沈んだ城の跡というような案内があり、車を停めました。一見遠目に西洋の修道士かのように見えた石像に惹かれ、近づいて眺めましたが、雪でほとんど何があるかわかりません。帰雲城(かえりくもじょう)という城が昔あり、ここで沈んだということですが、家に帰って調べてみると、1585年に東海や北陸を襲った大地震により崩落した土砂に埋もれてしまったという記載がありました。こんな山奥にもお城があったのですね。

 

白川郷

そして、道路の閉鎖に見舞われることもなく、突然に人々が往来する世界文化遺産の白川郷に着きました。外国人だらけです。外人にとってはこのクラスの雪も茅葺きの建物もさぞ珍しいことでしょうね。東南アジア系の人が多く、また少数ですが欧米系の人の歩いて移動している光景が割と目につきました。バックパッカーとまではいかないかもしれませんが、欧米系は個人の客で、アジア系は団体客という感じでしたか。駐車料が1,000円かかりました。人が多くてマスクしますが、眼鏡が曇ります。。

 

白川郷合掌造り屋根裏

有料で見学できるエリアに立ち寄って、合掌造りの中に入ってみました。私は沢内へ移り住んだ2年目に、住んでいる屋根の葺き替えを手伝ったことがあります。こうした屋根裏に上がって、カヤ葺きの人が外側から刺してくる紐付きの大きな針を中に押し入れて、写っているように丸い骨組み棒に紐を通して、もう一度その針を抜いてもらい、骨組みどうしではなく外と中でカヤを挟んで紐で縫うという作業を行いました。

 

合掌造りのき

軒下を見上げるとはこんな作りになっています。建物の中には昔の農具や生活具が展示されていたりしましたが、これは11月に岩手の川井でも見ましたし、そんなに珍しくもない感じでしたが、外国人にとっては興味深いものだったでしょう。「カンテラ」など実際どうなんだっけという品は写真に収めて来ました。

この白川郷はあまりにも有名ですが、でも景観としては「相倉」ですね!

 

木曽白川の氷柱群

相倉集落の光景が印象的だったためにトップに記させていただきましたが、順序としては、茅野の寒天工場を発った日は杖突き峠から伊那に入り、権兵衛トンネルから木曽へ抜けて、木曽福島の辺りの山道をフラフラしました。

釜の煮込み作業は夜の11:30から始まり、クレーンでの舟への煮汁移し、濾過した煮汁のノリツギ作業、固まった液の天切り作業、次の草の釜入れ作業を終えて13時過ぎから16時のエアかき混ぜ(棒立て作業)まで2時間ちょっと休憩があり、ここで風呂に入ったりしますが、ちょうどこの時間に長野SBCのローカル番組をテレビで観ていました。そこで確か紹介されていた氷柱群が木曽にあるということで、今回目指しました。ちょっとわかりにくくて通り過ぎたりしましたが、写真の「白川の氷柱群」がそれでした。写真に収めているのは一部で、高さ50m、幅250mに及ぶと記されていましたが、今年はそこまでにはなっていないようでした。地下水が染み出してツララになっているものです。御嶽山の近くまで進みましたが、雲に隠れて見えませんでした。

 

寝覚めの床

木曽といえば「寝覚めの床」ですので、これも掲載いたします。国道からだと線路とかが邪魔ですよね。学生時代に「特急しなの」で通行した時は眼前でよく見え、列車のスピードも落としてくれて案内アナウンスもしてくれました。車掌さんによっては「木曽のナカノリさん〜」と歌ってくれたものでした。いまでもそういうアナウンスはあるのでしょうか。。

3年くらい前にもここを訪れて記事にも書いたと思いますが、名古屋から特急で木曽の山を懸命に登り進み、そして松本のある穏やかな平野部に至ります。遠くには神々しい北アルプスが。。ブルックナーの九番の最終楽章の最後の部分がそうなんですね。激しいトゥッティ(全ての楽器が全力で奏でるクライマックス部)の後に、ふっと突然に天上の光景が拓けて、静かに終わります。アダージョで終わる九番ならではの全曲の締めくくりです。

西和賀沢内もそうですね。北上市から激しい山間部を通り抜け、山間部の盆地平野部に、ふっと至る。ブルックナー的です。

馬籠宿

木曽からは馬籠宿へ向かいました。以前、まだ釜煮込みでなく水車の仕事(テングサを洗う仕事)をしていた時の1日休みがあった折に「妻籠」には行っておりましたので、今回は馬籠に行きました。妻籠とともに、高校の時の修学旅行で来ているはずなんですが、全く記憶にありません。。

 

富山湾岩瀬浜

さて木曽の翌日の、合掌造りの里を満喫した後ですが、富山湾へ向かいました。昔NHK特集で富山湾についての番組があり、内容は忘れていますが蜃気楼だったり、いろんな生態的なこととか、背後に北アルプスが聳えていたり、気になっていた場所でした。ちょうど寒天工場に富山にゆかりがある人がいて話を聞いているうちに、こちら方面へ遠回りして寄ってから帰ろうと決めてました。いつも赴任の最初の頃からもう帰りのコースを検討し始めるのですが、頭の中で合掌造りとセットコースになっております。午後3時頃に岩瀬浜海水浴場に到着し、砂浜からの景色を楽しんでおりました。

が、いきなりのアクシデントが。。海水を触っていて、急に潮が大きくなったので靴を濡らすまいと後ずさりをしたところ、その波が結構大きくて、思わずダッシュし転んで左手を着いた時に結構な衝撃が。。靴は濡れはしませんでしたが、手首は3日経ったいまでもまだ痛く、けっこうな打撲を負ってしまいました。この後富山市内に戻ってガラスの美術館を見て白えびの天丼を食べてから宿泊地である上越市へ向かおうと思っていましたが、すぐに運転ができる状態でもなく、少し仮眠してしまい、それから次の上越市の宿へ向かうことにしました。白えびが課題に残りました。

軽トラなので、当然マニュアル車ですが、左手が痛いです。市街地は信号や渋滞で特にギアの入れ替えが多く、困ったと思いました。結局右手を左に回して2速に入れて発進し、次は4速に入れる、という2段階で何とかこなしました。国道8号とかを新潟方面へ向かい走るわけですが、時々5速まで入れるものの、2・4速式で何とかなりました。それにしても、富山市から上越市までは結構距離がありました。暗がりの中すぐ海が見える道を走りますが、昼間だったらもっと海がよく眺められたことでしょう。

夜に出張先の土地を走っていると寂しくなるということを前回も書いたのですが、2回目の寒天赴任で長野入りした時に、岩手を発ちこの上越市で1泊する行程を取りましたが、暗くなってから海が見えて来た時に、初めて何とも言えぬ寂しさを感じました。今回はもう自宅への帰路行程に入っいるし、そんな寂しさはありません。手首の痛さがあるだけです。

 

佐渡へ入港

上越市内のスーパーで閉店間際の値引き惣菜やビールを買い込んで、軽く晩酌後早々に眠りに就いて、そして翌日は新潟港を目指し早めに出発し、生まれて初めての佐渡渡航を実現しました。

昨夜は暗くて海がよく見えなかったものの、上越から新潟市への海沿いの道で十分に海辺の風景を楽しむことができました。海辺には板張りの住宅が建ち並んでいて、独特の景観を醸していましたし、佐渡に入ってからもでしたが、新潟には竹が多くあるなと思いました。

少しでも安く渡航費用を抑えたいといろいろ検索し、アプリを入れたりいろいろやった結果、ただでさえ足りないギガを消費して、オーバーしたギガ分を回収できたかどうかというくらいの割引率でチケットを入手し、佐渡に渡りました。新潟市からは佐渡は見えませんでした。霞んでいて見えないのか、それとも地球が丸いために見えないのかわかりませんが、フェリーは2時間半の航路で、あと30分くらいという時の佐渡の光景が上の写真です。

フェリーですが、車を積むとうんと高くなるので、新潟港に停めて単身で渡りました。2等席ですが片道3,100円くらいでした。新潟佐渡汽船すぐそばの万代駐車場Eに停め、24時間以内でしたので、翌日800円の料金ですみました(乗船した人の割引価格です)。ちなみに軽自動車でも往復で30,000円かかるようです(運転手1人乗船料金込み)。

 

トキの剥製

船は東側の両津という港に停まりますが、宿を取ったのは小1時間バスで走っての西側の温泉旅館でしたので、バス代が往復かかります。しかも帰りの方は、時刻の少し前に別の方面行きのバスが来るから注意してと旅館で言われたにも関わらず、よく行き先を確かめず、時間的にこれだと思って間違えたバスに乗ってしまい、違和感を感じて運転手さんに確認して2個先のバス停で降りて乗り直すというミスも。。行きは港で少しバスが停車してたので確認できましたが。。乗り慣れていないせいか、どうもバスは苦手です。料金が刻々と変わり、スムーズに支払って降りられるかも気になってしまいますよね。定期券ではないし。

温泉宿のすぐ近くに博物館があったので、午後4時を過ぎていましたが、まずこちらを見学しました。佐渡といえば、1)トキ、2)金山、3)伝統芸能(太鼓や能など)でしょうか。博物館でしたので縄文や弥生の出土品や生き物の剥製などが多かったですが、まあまあ満足。車じゃないのでトキの住む森にも世界遺産が決まったという金山にも行けませんでした。佐渡は結構広く、グーグルマップとかでコンビニが近いなとか思っても経路を見れば歩いて40分とかで、足がないと何もできないだろう感じです。

翌日の旅館からの帰りは、バス下車から出航まで時間があったので両津の港を少し歩く余裕がありましたが、レンタカーがあるじゃないですか。そういえばレンタカーを生まれてこのかた借りたことがありません。いつか、多分その時はもうないでしょうが、再び佐渡に来れた時はレンタカーを借りれば良いんですね。軽だと1日5千円切る感じでした。今回バスは往復で1,500円くらいでした。

砂金採りの道具佐渡金山には行けませんでしたし、博物館にもあまり見たかった展示はありませんでしたが、砂金を取るための道具が陳列してありました。ちなみに、今回の旅で、絵画にせよ展示品にせよ、案内看板にせよ、説明があるとそれは写真を撮るようにしていました。WiFiのない寒天工場にいて無駄にギガは使えないし、夕方5時のおやすみ前のひとときとか、旅先でスマホで撮った写真をその説明書きとともに見返していました。引き伸ばして見れば十分読めますよね。

 

 

 

 

 

 

佐渡文化・鬼太鼓

佐渡にはいろんな演芸の文化が栄えていたとは知りませんでした。太鼓が盛んなのは何となく知っていましたが、鬼太鼓というジャンルになるらしいです。岩手にも鬼の文化というのがありますが、さらにまた能とかも盛んで、能楽堂も結構数あるらしいです。

ブリカツ

小1時間博物館にいて、それから隣の温泉旅館に移り、ゆっくり温泉に入って寒天煮込みの積み重なった疲れと、手首の打撲をたっぷり癒しました。ぬるっとした効能ありそうな温泉でしたね。一人だし素泊まりですので、売店の適当な食べ物と、フェリーの中で買った「ブリカツ」やスーパーの千切りキャベツで晩酌としました。バスなので道中下車して買い物もできずです。居酒屋も館内にはありましたが、温泉から出て出歩く気力も予算もないし、売店のビールと茅野で買っていた五一ワインの大瓶も味わって、のんびりテレビを見て極楽でしたね。何より、もう夜の11時20分に起きなくて良いのです。佐渡だけで使えるという2千円の商品券がもらえたのもラッキーでした。

 

ときわ丸

両津港からフェリーで帰路に着きました。立派な船でした。佐渡の土産として、娘にはトキのキーホルダーのようなものとかマグネットを買ったりしましたが、佐渡土産ナンバーワンは佐渡バターのクッキー(800円)のようで、買いました。

 

佐渡からの別れ

佐渡見えず

 

 

 

 

カモメに見送られながら、佐渡が離れて行きます。しばらくすると何も見えなくなってしまい、雲のせいか地球が丸いせいなのか。。

新潟からは小国・山形を経て自宅に戻りました。カツ丼(ふつうに卵でとじたもの)が無性に食べたくなり、いつも旅の時はそうですが、チェーン店とかでなく大衆食堂を探して入りました。

また途中小国の道の駅で買ったラフランス入り午後の紅茶は美味しかったです。

疲れていますし、まだ手首も痛い。少し何もできずゆっくり休養し、夜は念願の晩酌しながらWiFiでPC映画を観る、で過ごし、それからたらの芽作業や確定申告等事務作業に着手します。とりあえず、スマホの写真をMacに移送し年賀状に目を通したり、どっさりの郵便物を開封したりしています。

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懐かしの伊那谷〜木曽路ドライブ

  • 寒天出したて

寒天作業も準備が終わり天出しが本格化しています。煮汁をケースに流し込んだ後に棒状の形態に切り取り、庭に運び出してカイリョウと呼ばれる板に載せています。

 

後は夜これを積む、昼はこのように拡げる、のくり返しで2週間でスカスカの乾燥した棒寒天が出来上がります(最後はハウス内で乾燥させます)。最初はたっぷり水分を含み重いです。これを二人組で積んだり広げたり、伝統的製法の天日の寒天は大変な作業努力の上に成り立っているのです。

 

ただ、このところ暖かくて寒天製造には全く不向きな天候で、昨日は作業が休止となってしまいました。。

 

ということで、軽トラに乗って出かけて来ました。休みというのは基本的にないので、こういう機会でもないと、せっかく学生時代の思い出の地信州に来ているのに、どこにも出かけられずに終わってしまうことになりかねません。

 

期間が終わってからでは今度は宿泊のことを考えなくてはいけないし、タラノメ作業の着手が遅れてしまいます。こういうチャンスを逃す手はありません。

 

 

分杭峠

これまで2冬、期間が終わって帰るときに、あるいは今年来た時とかに、松本や長野方面は通行するなり立ち寄っています。日本海経由で新潟からなので。それで飯田伊那地方や木曽の方はこの数十年立ち寄れておりませんでした。

 

茅野から杖突峠を越えて簡単に伊那谷に入れます。伊那谷の谷底を走ってもあまり魅力を感じませんで、南アルプス側に並行する一段高いところを通る国道を南下しました。高遠から長谷、大鹿に至る国道152のルートです。

 

かつて東京にいた時もこのルートをバイクで走りました。険しい峠道を越えて大鹿村に入りますが、とっても狭いクネクネの峠道。これが国道かという山道で分杭峠に着き、大鹿村へ。

 

 

中央構造線の説明

大鹿に入ってすぐに中央構造線が露出しているという看板があり、下りてみました。鹿塩川のそばに西と東を分かつ線があるという。

 

 

中央構造線

確かに土の色も違いますね。ここが西日本と東日本の境界になるようです。

 

この後は、あまり写真は撮っていませんが飯田へ下って行きました。本当は大鹿の隣の上村まで行きたかったのですが、大鹿と上村の境になる地蔵峠が冬期閉鎖中でいったん飯田へ迂回するしかなさそうで、断念しました。上村はかつて新規移住就農したいと希望し、役場を訪れたという経緯があり、まあいわくのある地でした。当時ちょうどオウムの事件真っ最中で、この村にもオウム信者が潜伏し、地元民といろいろあったということで、移住というのはちょっとタイミングが悪かったという感じのことを言われましたね。あなたは別にそういう人ではないだろうけれど、と。

 

いずれ農業をという意味では地理的にも決して好条件ではないですし、むしろ飯田を挟んで対岸の中央アルプス斜面になる地域の方が農業は盛んと言えるかもしれません。大鹿を走っていても、大型ダンプとか土木の車両ばかりがやたらと目についた感じでした。

 

もしオウムのことなどなくてあのまま上村に定住していたら、どんな人生になっていたか。。条件という面では決していまの沢内が優れているわけでもないですが、ただ専業農家は私のいる地の方が多いとは思います。

 

また次の機会があれば、今度は飯田市の側から入って、遠山郷辺りも一緒に見物したいと思います。下栗の里としてこちらのローカル番組で見ていて、興味深く思います。

 

 

妻籠1

さて飯田南部の山村地帯を走り、たまたまテレビ(ローカル)で見たドライフルーツを製造しているという工場を訪ね、直接話を聞きながらいくつか買い物をさせてもらったり、ワークマンを見つけて手袋を買ったりし、南信の美しい山里を走りながら、そして中津川の方から木曽へと進入しました。

 

ほどなく妻籠宿に来ました。高校2年の時の修学旅行以来です。40年にもなるのか。

 

 

妻籠2

修学旅行でこちらにも来ているはず、ですが、全く記憶にありません。修学旅行なんてそもそもワイワイガヤガヤで、対象物をきちんと見ているわけじゃないですしね。でも妻籠は心安らぐ昔の街並みで、楽しんできました。12月の平日で閑散としてましたが、外人さんもいました。地元の子どもも。。

 

 

寝覚の床

さて夕暮れが迫って来てまして、ちょっと急ぎ足で訪れたのが、ここ「寝覚の床」です。もうちょっと薄暗かったのですが、iPhoneが明るく補正して撮ってくれました。さすがです。

 

信州大学の時の帰省では当時広島から名古屋経由で特急しなのに乗りましたが、ここへ来ると車内アナウンスで寝覚の床をガイドしてくれました。そして車掌さんによっては、「木曽のナーあナカノリさんは〜」と歌ってもくれました。列車の速度も落としてくれて。

 

国道は線路より高いところを通っていて、線路も写っていますが、電車からはもろ眼前に見えたのでした。

 

この木曽の険しい山々を乗り越えて、開けた松本平に至ります。苦難を超えて平安の境地にたどり着く、といえばオーバーでしょうか。

 

ブルックナーの9番の最終楽章で、本当に全曲が終わる直前に、苦しくもがくようなトゥッテ(全奏)の大音響が響き、そしてフッと天上の世界に至り弦と木管・ホルンのやさしい静かな終結部になります。二十歳過ぎの当時、この木曽の辺りを通るたびにこの9番の最後の箇所が頭によぎりました。まさに険しい正念場ですし、ここは。

 

いまの沢内でいえば、北上市から107号で和賀仙人に差しかかった頃の感じです。ここもやはり最初の頃はブルックナーの9番の最後が頭で響く所でした。いまはもう感じませんが。。この難所を克服して到達する天上の世界が沢内であると。天上の世界に達するためには、試練や慟哭を潜り抜けた上でなければならないと。個人の勝手な思いで申し訳ありませんが、その原型がこの木曽の寝覚の床にあったのでした。

 

寝覚めはすなわち覚醒を促すという床、スポット、なんですね。ここが、浦島太郎伝説の発祥地。40年前にタイムスリップさせられてくれた覚醒の床のパワーは、ある意味浦島太郎本人にも通じるしょうか。アインシュタインの相対性理論の時間概念を覚醒したとか。。