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懐かしの伊那谷〜木曽路ドライブ

  • 寒天出したて

寒天作業も準備が終わり天出しが本格化しています。煮汁をケースに流し込んだ後に棒状の形態に切り取り、庭に運び出してカイリョウと呼ばれる板に載せています。

 

後は夜これを積む、昼はこのように拡げる、のくり返しで2週間でスカスカの乾燥した棒寒天が出来上がります(最後はハウス内で乾燥させます)。最初はたっぷり水分を含み重いです。これを二人組で積んだり広げたり、伝統的製法の天日の寒天は大変な作業努力の上に成り立っているのです。

 

ただ、このところ暖かくて寒天製造には全く不向きな天候で、昨日は作業が休止となってしまいました。。

 

ということで、軽トラに乗って出かけて来ました。休みというのは基本的にないので、こういう機会でもないと、せっかく学生時代の思い出の地信州に来ているのに、どこにも出かけられずに終わってしまうことになりかねません。

 

期間が終わってからでは今度は宿泊のことを考えなくてはいけないし、タラノメ作業の着手が遅れてしまいます。こういうチャンスを逃す手はありません。

 

 

分杭峠

これまで2冬、期間が終わって帰るときに、あるいは今年来た時とかに、松本や長野方面は通行するなり立ち寄っています。日本海経由で新潟からなので。それで飯田伊那地方や木曽の方はこの数十年立ち寄れておりませんでした。

 

茅野から杖突峠を越えて簡単に伊那谷に入れます。伊那谷の谷底を走ってもあまり魅力を感じませんで、南アルプス側に並行する一段高いところを通る国道を南下しました。高遠から長谷、大鹿に至る国道152のルートです。

 

かつて東京にいた時もこのルートをバイクで走りました。険しい峠道を越えて大鹿村に入りますが、とっても狭いクネクネの峠道。これが国道かという山道で分杭峠に着き、大鹿村へ。

 

 

中央構造線の説明

大鹿に入ってすぐに中央構造線が露出しているという看板があり、下りてみました。鹿塩川のそばに西と東を分かつ線があるという。

 

 

中央構造線

確かに土の色も違いますね。ここが西日本と東日本の境界になるようです。

 

この後は、あまり写真は撮っていませんが飯田へ下って行きました。本当は大鹿の隣の上村まで行きたかったのですが、大鹿と上村の境になる地蔵峠が冬期閉鎖中でいったん飯田へ迂回するしかなさそうで、断念しました。上村はかつて新規移住就農したいと希望し、役場を訪れたという経緯があり、まあいわくのある地でした。当時ちょうどオウムの事件真っ最中で、この村にもオウム信者が潜伏し、地元民といろいろあったということで、移住というのはちょっとタイミングが悪かったという感じのことを言われましたね。あなたは別にそういう人ではないだろうけれど、と。

 

いずれ農業をという意味では地理的にも決して好条件ではないですし、むしろ飯田を挟んで対岸の中央アルプス斜面になる地域の方が農業は盛んと言えるかもしれません。大鹿を走っていても、大型ダンプとか土木の車両ばかりがやたらと目についた感じでした。

 

もしオウムのことなどなくてあのまま上村に定住していたら、どんな人生になっていたか。。条件という面では決していまの沢内が優れているわけでもないですが、ただ専業農家は私のいる地の方が多いとは思います。

 

また次の機会があれば、今度は飯田市の側から入って、遠山郷辺りも一緒に見物したいと思います。下栗の里としてこちらのローカル番組で見ていて、興味深く思います。

 

 

妻籠1

さて飯田南部の山村地帯を走り、たまたまテレビ(ローカル)で見たドライフルーツを製造しているという工場を訪ね、直接話を聞きながらいくつか買い物をさせてもらったり、ワークマンを見つけて手袋を買ったりし、南信の美しい山里を走りながら、そして中津川の方から木曽へと進入しました。

 

ほどなく妻籠宿に来ました。高校2年の時の修学旅行以来です。40年にもなるのか。

 

 

妻籠2

修学旅行でこちらにも来ているはず、ですが、全く記憶にありません。修学旅行なんてそもそもワイワイガヤガヤで、対象物をきちんと見ているわけじゃないですしね。でも妻籠は心安らぐ昔の街並みで、楽しんできました。12月の平日で閑散としてましたが、外人さんもいました。地元の子どもも。。

 

 

寝覚の床

さて夕暮れが迫って来てまして、ちょっと急ぎ足で訪れたのが、ここ「寝覚の床」です。もうちょっと薄暗かったのですが、iPhoneが明るく補正して撮ってくれました。さすがです。

 

信州大学の時の帰省では当時広島から名古屋経由で特急しなのに乗りましたが、ここへ来ると車内アナウンスで寝覚の床をガイドしてくれました。そして車掌さんによっては、「木曽のナーあナカノリさんは〜」と歌ってもくれました。列車の速度も落としてくれて。

 

国道は線路より高いところを通っていて、線路も写っていますが、電車からはもろ眼前に見えたのでした。

 

この木曽の険しい山々を乗り越えて、開けた松本平に至ります。苦難を超えて平安の境地にたどり着く、といえばオーバーでしょうか。

 

ブルックナーの9番の最終楽章で、本当に全曲が終わる直前に、苦しくもがくようなトゥッテ(全奏)の大音響が響き、そしてフッと天上の世界に至り弦と木管・ホルンのやさしい静かな終結部になります。二十歳過ぎの当時、この木曽の辺りを通るたびにこの9番の最後の箇所が頭によぎりました。まさに険しい正念場ですし、ここは。

 

いまの沢内でいえば、北上市から107号で和賀仙人に差しかかった頃の感じです。ここもやはり最初の頃はブルックナーの9番の最後が頭で響く所でした。いまはもう感じませんが。。この難所を克服して到達する天上の世界が沢内であると。天上の世界に達するためには、試練や慟哭を潜り抜けた上でなければならないと。個人の勝手な思いで申し訳ありませんが、その原型がこの木曽の寝覚の床にあったのでした。

 

寝覚めはすなわち覚醒を促すという床、スポット、なんですね。ここが、浦島太郎伝説の発祥地。40年前にタイムスリップさせられてくれた覚醒の床のパワーは、ある意味浦島太郎本人にも通じるしょうか。アインシュタインの相対性理論の時間概念を覚醒したとか。。