2か月に一度ほど整形外科で県立中央病院に通っているのですが、その日は買い物や(ホームセンターとか)興味ある場所への旅を兼ねて過ごすリフレッシュの1日になっています。今回5月31日、以前よりGoogleマップで見つけて気になっていた、一関市・旧藤沢町の「大籠」という地区にある「大籠キリシタン殉教公園」へ見学に行って来ました。説明はつかないのですが、キリスト教に関する古い遺跡・文化遺産を知ると訪ねたくなります。「マリア観音像」という遺物が同じく一関市の東山町、幽玄洞のそばにありまして、2007年に訪ねた記録がありますが、当時は写真には撮りませんで(カメラを車に置いたままにしていたのでしょう)、昨年再び訪れた時には、残念ながら危険防止ということで立ち入り禁止になっていました。また長野県にいたこの冬にも木曽の奈良井宿を訪ねた時には「マリア地蔵」という古い石仏を見る機会があり、記事にも書かせていただきました。いずれも隠れキリシタンの歴史に関わる遺跡になります。観音像やお地蔵さんに聖母マリアが重ねて表現されていて、それが全国にわたって
資料館ではまず10分余りの映像を見せてもらい、この大籠キリシタン殉教の全貌をよく知ることができます。そしてとても貴重な遺品の数々が展示されてありました(撮影禁止でお見せすることはできません)。キリスト像や、母子像、珍しいものでは厨子本(ずしぼん:雑誌の中にキリストの十字架像が挟み込まれている)、デウス仏、馬頭観音像、キリシタン鍔(刀のツバのこと?)など、興味深く見学しました。
ここ藤沢町の大籠地区では戦国時代の頃から「たたら鉄鋼」が行われていたそうです。私も20年近く前に県内数か所の市町村の合同での研修会で、たたら製鉄を実際に体験したことがあり、岩手では各所で製鉄が行われていたのでしょう(釜石のような鉄の町がある県ですから)。まさに「砂鉄川」という川が「猊鼻渓」で有名な東山町(先のマリア観音のある町)にありましたし、砂鉄を集めて土を盛った釜で製鉄した工法がたたら製鉄と言われます。大籠では、その製鉄の技師を岡山県から招いたのですが、その招かれてここで製鉄を指導した兄弟がキリスト信者で、その兄弟を通じてキリスト教がこの地区で普及していったらしいです。ここはほとんど宮城県との県境地域で、管轄は伊達藩、伊達政宗の時代になりますが、政宗自身はキリスト教に寛容であったらしいです。が、だんだんと幕府による締め付けと迫害が厳しくなっていき、この大籠でもやがて隠れキリシタンが踏み絵の強要や拷問に遭い、結果、当地で309人の信者が処刑されたと言われています。隠れキリシタンの処刑は各地であったわけですが、ここ大籠にこのような施設(ただ資料館があるだけではなく、複数の施設や遺物が含まれています)があるのは、やはり規模が大きかったのだということと思います。かなりの山奥の村なんですが。。
丘の上に「クルス館」(クルスは十字架の意味)という建物があり、そこに至るまで、下の資料館のところから309の階段があります。楽ではなく10分くらいかかった気がします。左はその登り口にある石像です。
309の階段を登り詰めるとまずカリヨンが目に入ります。3時までは定時に鳴らすと書いてあり、もう4時になるところだったので諦めていましたが、4時の閉館時に鳴っていました(写真はクルス館のテラスから撮影)。カリヨンは去年、田沢湖からの秋田ドライブの帰りに宝泉湖のそばにもありました。
こちらがクルス館という施設です。カリヨンの場所から撮った写真です。手前の岩にはローマ法王ヨハネ-パウロ2世からの大籠へのメッセージ文が記されています。
クルス館には舟越保武氏によるブロンズ像が設置されてありました。右はマグダラのマリア像です。マグダラのマリアはイエスの熱心な信者で、ゴルゴダの刑場にもいてキリストの死に立ち会っていた女性ですね。
資料館から車で県道まで戻った合流店にある「地蔵の辻」と呼ばれる処刑場です。最も多くの信者がここで殺されました。
こちらは「上野刑場」と呼ばれこちらでも多くの信者が処刑されたと伝えられています。北西へ車でしばらく進んで下車し、見ました。
その上野の近くにある大籠のカトリック教会です。こういう建物を見ると心が落ち着きます。静寂でした。
キリシタン殉教に関する大籠地区のマップです。左側の公園の図にある通り、クルス館に登る直進の階段は結構きついので、ジグザグの緩傾斜の巻き道(図中の「歴史の道」)も設置されてあり、ここにはその舟越保武による「十字架の道行」と名づけられたレリーフ(彫刻)を写した石板14あり、十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かうイエスの最後の場面が描かれて設置してあります。広域図の方の道路の右下は気仙沼へ至る方向、左上は一関市に向かう方向になります。このマップの大きい写真もこちらに掲載しますので、よかったら文字を確かめてください。
ドライブする時、できるだけ同じ道の往復は避けたいし、通常何か所かを訪れます。今回は病院の診察が早めに終わり、気仙沼へ直行し、お昼ご飯を食べた後、大籠へ向かう途上にある気仙沼市の震災遺構を先に訪ねました。
向洋(こうよう)高校という水産系の高校が遺構として残されていました。校舎の3階にまで車が流されて来ています。屋上にも上がりましたが、ここに避難して津波に耐えた先生や関係者たちもいたようでした(生徒は全員避難所に避難し無事だったそうです)。海側の水産加工場がこちらに流されてきて一部接触し抉られたところもあったようですが、正面衝突でなくて助かったとのことでした。先に訪れた大川小学校と違い、犠牲者は出なかったようでした。海岸から150mのこの高校への津波の高さは12mで、校舎4階まで達したそうです。
この後に大籠殉教公園へ向かい、閉館の4時までいて、その後県道沿いの遺物群を見学しながら一関方面へと帰路に着きました。ふと、末娘と以前訪れた館ヶ森アーク牧場のことを思い出し、こちらを経由して帰路に着いたのですが、藤沢町のこの辺り、とても農村景観が美しく、走るのも楽しかったです。アーク牧場も結構な山中にありますが、まだ観光農園として営業しているようでした。あまりCMもないので情報が少ないですが、畜産をベースにした農業者がそれを発展させて作った施設だったと思います。ラベンダーの時期にラベンダー染をやるということで出かけたのももう5年以上前ですかね。ここでは有機の小麦栽培もしていることを当時知り、前回は圃場も見て来ました。今回同じ圃場を訪れてみましたが、今期の作付けはなかったようでした。それからライオンのいるサファリパークを通過して一関へ出て、忙しく買い物をしながら自宅を目指し、午後9時に帰宅しました。大籠の殉教公園が16時に閉まるということで買い物などは後回しになりました。
現在は、りんどうの芽かき・草取り作業と新しい苗の定植作業、農道畦畔の草刈り、そして田の除草機かけを並行して行っています。もう1週間くらい経ったらタラノキ園のこの春にヒコバエから定植した苗に大豆粕肥料を与えつつ草取りをする作業を忘れないようにしたいと思います。今年も新しく4畝作ってマルチを張り、通路部分に生えてくるタラノキのヒコバエをスコップで掘って、新しい畝に植え付けする作業を終えました。今年伸びて来て植えたものはこの晩秋に収穫してたらの芽の穂木にすることはまだできませんが、来年の秋の収穫のための養成株になります。寿命が来て枯死する木も次々出て来ますから、畑を移動させつつ、毎年ヒコバエの植え付けで規模を維持することが欠かせません。できればやや微増させて出荷量を増やしたいところですが。。
これまでの好天の反動でぐずついた日々が1週間続いていて、寒いです。6月は何と言っても田の除草の月です。株間までは取れない従来式の3条除草機ですが、昔の機械と違ってエンジンを背負って行う背負い式刈り払い機に除草のアタッチを付けるタイプの除草機で田を歩いております。