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岩手に戻り農家再開しました

霧ヶ峰から北アルプスを遠望

2月10日夜からの最後の寒天(テングサの)煮込みが始まり11日の午前10時を持って庭への天出し作業が終わりました。そしてその日中と翌12日に片づけを終えて、寒天出張は無事完了しました。外で寒天を完成させていく庭仕事の人たちはまだ2週間くらい仕事は続きますが、煮込みを主体とした釜の仕事である私は区切りが付いて、13日の朝に工房のある茅野市を発ち、岩手へと向かいました。

今回は途中の1泊を会津若松にしましたが、佐久・高崎・日光経由のルートを取ったため、八ヶ岳を横断する必要もあり、まずは霧ヶ峰への登頂からのスタートでした。とはいえ茅野市から30分で着いてしまう近さなんですが。。

初めて寒天仕事に従事した年の2018年1月下旬にもこちらにはドライブで来ております(ブログの霧ヶ峰探訪記)。4年ぶりの今年は2月10日の積雪で雪は多めでした。雲が多めで写真としては晴れた2018年の時の方が少し綺麗でしたね。本当は大キレットを撮りたかったのですが、霧ヶ峰からはその全貌は見えないようで残念でした。2018年1月19日に来た時の良好な写真でお示しします(↓)。

 

大キレット

大キレットにこだわるのは、信州大学の松本にいた20歳前後の頃から、ここにずっと畏怖の念というかぞっとする恐怖心みたいなものを覚え続けていたからです。ここを越えないと槍と穂高を縦断することはできまでん。ついに槍穂の縦走の機会はなくて大キレットを通過することはなさそうですが、ここ霧ヶ峰の高さまで登っても大キレットの深淵部は見えません(蝶ヶ岳が遮っているのですが)。人は研鑽を積み高みに登れば登るほど、深淵部の深みを初めて見ることができる地位に至ります。それは松本のような都市部から簡単に全貌を表すものではありません。かつて常念岳に登った時は眼前に見えたはずですけどね。こういう考えにヘーゲルの「精神現象学」の絶対的に知ることへの高みへ至る「経験」の歩みを重ねて捉えていたものでした。高みへ登るということは足元の地盤の深みを自覚することでもあり。。

 

霧ヶ峰から富士山を遠望

こちらは富士山が見えるところでのワンショットです。右の方は南アルプスということですね。今回富士見町のルバーブ栽培の農家の方を2月11日の日に探訪する機会がありましたが、その時はもっと大きな富士山がいきなり現れて来たものでした。

 

茅野市から見た八ヶ岳

茅野市は八ヶ岳のお膝元であり、ちょうど寒天工場からは見えないんですが、少し走らせるとこのように美しい姿を見せてくれます。大学1年の夏休みには蓼科グランドホテル滝の湯でアルバイトした懐かしい土地でもあります。登山としては東京時代に3回くらい登りました。一度は年末大晦日の冬山で、赤岳山頂付近で風雪に遭い、顎のあたりが軽い凍傷でポロポロ皮が剥けた経験も懐かしいところです。

 

釜の煮込みが67日

去年に続き、今回も釜でのテングサ煮込みからモロブタに移した煮汁の天切りまでの工程で、夜10:30起床、翌日夕方5時に就寝というハードなスケジュールが休む間もなく67日間。前後の準備期間と片づけを合わせて約80日。一つ一つの作業そのものは決して重労働というわけではないのですが、力仕事の瞬間も多々あり、睡眠不足が背景にありまして、容易な仕事ではありません。ただただ慣れていくしかないという感じです。

 

TBS取材中

後半にTBSの取材が入りました。この土地に特有の伝統産業だけに新聞やテレビはひっきりなしに取材に来ますが、それらは季節の風物詩ということで、地元県内のニュースの一コマというものです。今回のTBSはそうではなくて、新しい企画の「不夜城」というタイトルで夜に働いている人たちを追ったドキュメンタリー番組ということで、22:30の起床時から付き合ってくれました。放送は3月29日の深夜の時間帯だそうです。

いろいろこれからの企画の話もしたし、私としては農家農村が、ここならではという仕事を見出して、「農閑期」という克服し難い壁を突破できるようなきっかけ作りがテレビ番組を通じても発掘されていけば良いと感じました。

 

鶴ヶ城

さて13日は八ヶ岳から佐久に抜け、会津若松を目指す日程でした。ホテルの宿に入るにあたり、ちゃんとしたカバンを持っていなかったので、旅行カバンを買える店?? と思案する中、結局佐久にあるイオンに入って手頃なバッグを買い、そして長野県を後にしました。あとは会津若松までお店が並ぶ市街地というのは通過しません。

佐久市のイオンにいたときに、日曜日でもあって、「お父さん!」という男の子の声が耳に入り、ハッとしました。10年前には盛岡のイオンで私がそう呼ばれていた。ここは長野で自分の子はいない一人身。仮に子どもたちがそばにいたとしても、いまはもう10代も半ばでこういう高い大きな声で遠くから呼ばれることはありません。そういう経験はもう永久に失ってしまったのだといまさらながら気が付いたのでした。。

翌日は夕方に抗原検査の予約をしていたために、あまりあちこち気ままに移動というわけにはいけませんで、ナビで到着時間を気にしつつ湯沢・横手から沢内に戻り、薬局で鼻から採取する抗原検査で陰性を確認し、家に戻りました。

わかっていたことですが、家が近づいてくるにつれ、こちら岩手での生活の感覚が戻って来て、昨日までの茅野の生活が遠のいて行きます。現実に戻り、こうして部屋のパソコンに向かっている姿を茅野では早く早くと願いつつ労働した日々ではありましたが、戻ってみれば当たり前のことで、こうした当たり前の自由な時間を持てることは貴重ではありますけれど、戻ってみればそれまでです。一番ワクワクする時は、工場を車で後にした直後の、自由になったという解放感でしょうか。自分で自分の時間を工面できるありがたみをひしひしと噛み締めながら、霧ヶ峰へと走らせる。ちょっと贅沢してCDや外部入力の付いたオーディオが軽トラには備わっていて、スマホから繋ぐケーブルもあります。これでブルックナーの5番を聴きながら霧ヶ峰を走る姿は、寒天作業中に何度も頭の中で予行演習されていたものでした。。

5番の終楽章のクライマックス(コーダ)は実に壮大です。トゥッティというんでしたか、全部の楽器が鳴り響き、主旋律は金管群が担当し、弦楽器は全て伴奏に回ります。この伴奏の弦楽器が必死に刻むリズムが何とも言えない魅力に感じています。

冒頭に触れた北アルプスへの空間をブルックナーが満たしてくれましたが、こうした山岳にはぴったりですね。帰り道のルートも、一部軽井沢のグネグネ道から高崎・前橋の市街地は高速道路で切り抜けましたが、後の会津へ向かう道は国道122号という山中をゆく道路。日光を過ぎて鬼怒川・川治・湯西川と温泉地を通過し、車中はやはりブルックナー。8番、9番と進みます。市街地ではどうも似合わずブルックナーは山間部というのがやはり実感できます。

暗くなって、会津若松に入り、鶴ヶ城を眺め、宿に入り、11月24日以来の晩酌を楽しみました。

そして、いまは再び農家に戻り、お米の出荷も全品種対応いたします。どうぞまた宜しくお願いいたします。

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