さ わ う ち の 昔 話 〜  百合 若藤兵エとその一味   



  山賊とか「ごまのはえ」とかの昔話がよくありますが、これらは昔の旅行者から金品や命までも奪った悪者でありました。袴垂や蜂須賀小六などは国史にも現れ るほどの泥棒の大親分でしたが、洋の東西を問わず、国の政治がゆるむと、中央から遠ざかるに従って、悪者がはびこって良民が苦しめられたことは、歴史や物 語によく描かれています。私たち沢内の祖先も、このような辺地にあってこうした苦しみと戦って郷土を開拓し、今日に至ったことを思うとき、先人の労苦に対 して感謝の念を覚えます。
 「ごまのはえ」程度はまずおいて、昔この沢内にも大泥棒がいて、遠近を荒らし回った話があります。
 弾亟(だんじょう)という泥棒は、貝沢の上の野を根城に、藤兵エは高下の水上沢を根拠として泥棒を働いていました。
 この両人は、互いに協力して常に岩手郡の御所、雫石、南畑や稗貫郡の豊沢、湯口を股に掛け、遠くは盛岡や秋田の方面まで、山を越えて略奪に出かけていま した。
 また、小倉(おくら)には白円(びゃくえん)という女泥棒が住んでいて、大きな仕事をするときには、いつもこの三人が力を合わせて働いたといわれます。 小倉というところは、川舟から東の方の山に入る中山街道沿線(現在の通称なめとこライン)の湯ノ沢の奥、稗貫郡豊沢との郡境にある小倉山(標高八五〇米) のことで、白円はこの高いところに居を占めて、常に藤兵エや弾亟と緊密な連絡を取っていました。どうやってかというと、焚き火を燃やし、その立ち上る煙の 様子で信号を取ったといいます。すなわち、煙が一箇所から上ったときは、今夜は仕事がうまくないとか、二箇所から上ったときは、はっきりしないとか、また 三箇所から上ったときは、大丈夫だ、安心してかかれ、といったような信号であったというのでした。もちろん、当時の部落民には、そのような信号をして泥棒 が連絡を取っていたことなぞ、わかるはずもありません。
 藤兵エの子分になって働いた者が、後日になって語ったということに、
「泥棒を働くには、夜道であっても急ぐ足の速さは、腹に菅笠を当ててそれが落ちないくらいの早足で歩かないと落第だ。一夜の中に一五里や二〇里くらいを往 復するのは普段のことだった」と、自慢げに語ったということです。
 藤兵エと弾亟は、小倉の白円のところに往復するときは馬に乗って、貝沢の東南に当たる峰を越えるのでした。あるときのこと、二人はいつものように夜道を 馬で山越えをしたら、この頂上にさしかかったとき、前になった藤兵エの馬が木の根につまずいて左前足を折り、一声高くいなないて峰から転がり落ち、寝木に 首を挟んで死んでしまいました。
 それからこの沢を「死の沢」といい、馬が足を折っていなないた峰は「駒泣かせ」と名づけられました。また、馬の転がり落ちた場所をば、「馬ころばし」と 呼んでいまに伝えています。
 藤兵エは自ら姓を、「百合若」(ゆりわか)と名乗っていましたので、百合若藤兵エの名は、南部と佐竹の両藩に知れ渡っていました。老後、彼はその地で死 にましたが、上の野にある藤兵エ塚というのがその墓地であると伝えられています。
 弾亟もまた、高下の水上沢の住家で往生して、そこに葬られました。いまも弾亟墓という地名が残っていますが、はっきりした場所はわからないようです。


〜高橋善二『沢内の民話』(沢内村教育委員会)より抄録