さ わ う ち の 昔 話 〜  およ ね物語   



  沢内三千石お米の出どこ
  枡ではからないで箕ではかる

 このよく知られた「沢内甚句」の歌詞の、お米はおよね、箕は身であるとされる解釈が有名で、凶作にかかわる村の娘「およね」の悲哀の物語が語り継がれて います。
 「沢内年代記」によると、天保の大飢饉のときの凶作は甚大で、生活は窮乏を極めた凄まじいものだったと伝えられています。ホシナ(大根葉の乾燥したも の)と根花(ワラビのでんぷん)で命をつないだ者はまだ良い方で、わらを食べ、雪解けを待って草の根を掘って食べるという悲惨なものだったのです。
 そのため、お倉米(納税)を納めることができなかったのは言うまでもないことですが、それにもかかわらず殿様からは上納の厳しいお達しがたびたびあっ て、沢内通りの名主たちは、いかにしてこの苦難から逃れようかと日々相談に明け暮れ、納米の減額や免除を嘆願したのでした。
 そんな中、あるときの集まりに、当時沢内通りに駐在していた代官が、次のように言ったのでした。
 「近年のケカジ(凶作)続きは沢内通りばかりでなく、奥州から関東にかけての大飢饉なのだから、なかなか免除の許しなどは出ないことである。当藩内のこ とではないが、農民たちは殿様に誠意を示すために、娘を上げ申したということがある」
 何か暗示を与えるようなことを聞かされて、一同は帰りました。
 やがて十一月に入り、その年も俵探しの役人がお米のありそうなところを回って調べました。見つかれば強制的に没収されてしまいます。困っている人たちに 分けてやる余裕もありませんでした。冬を迎えてさらに生活は厳しくなり、名主たちも、納米の督促どころか、自分の郷の餓死者を防ぐために懸命なのでした。
 しかし代官所からの厳しい通達に困り果てた名主たちは、ついに最後の相談をすることとなり、そして、代官が言った娘を差し上げることのほかないという結 論に達したのでありました。
 「背に腹は代えられない。この方法よりほかに道がないとすれば、沢内通りの農民を救うために一つ代官様にお伺いをしてみようではないか」
 そして新町の代官所を訪れて、結果交渉はうまくいき、ほっと胸をなでおろしたのですが、名主たちは、次に、その殿様に上げ申す娘は何処にあるだろうかと 真剣に考え探すことになりました。
 「代官所の近くであれば、なじな者でもあるべし、都合もいかべなァ」
 「んにゃ、えおなごというのは上の方にかぐれだとこにいると思うんでごァし」
 この頃、沢内通りは太田を中心に二分しており、南北に分けて探すことにしましたが、結局その娘というのは、どうしても北部からであるという結論に達した のでした。
 そして度重なる集まりの末、川舟村に候補者が二、三人あるということにしぼられて、貝沢、新山、川舟の三部落から一人ずつ見つけようということとなりま す。
 さて、郷の同心二人が新山を回り、話を聞いていたとき。橋を渡ってすぐの家の爺が言うには、「こごえら(この辺)でだら、吉右ェ門どこの娘っこよりえお なごァねァがべなし」、と。これを聞いて二人の目は光りました。挨拶もそこそこにしてこの家を飛び出していきました。
 吉 右ェ門の家は旧家で、六十余年前、田掻き馬が狂乱し、岩手山麓で立ち往生して蒼前様に祀られたという伝説のある家でありました。
 同心が急ぎこの家を訪れると、年の頃十六、十七かと思われる、背の高い面長の美しい娘が挨拶に出てきました。二人はしばらく休んでいる間に、この娘の立 ち居や動作にすっかり惚れ込んだのでしたが、突然に件の話も言い出せず、ひとまず帰ったのでした。
 名主たちの集まりに報告がなされ、正式に吉右ェ門の家に交渉することになりました。
 何の不自由もない総本家のの娘が殿様に上げられるという話が伝わると、遠方の分家や親戚などから猛烈な反対の火の手が上がりました。もちろん、本人も両 親も容易に首を縦に振らなかったのは無理もないこと、、。たとえどんな理屈を付けようとも、年貢米の代わりになる人質にほかならないのです。
 連日矢のように攻められ、連日連夜にわたり相談は続けられ、その娘、およねもまた悩み、考えるのでした。
 冬が過ぎて春の彼岸の中日のこと。
 「殿様に仕えるごどはありがでえが、お倉米の代わりなど人身供養だから、本家の大恥だ。だれァ何たって承知こがね」
 「それも考え方だ。おら本家の娘こァ沢内を救ったとなれば、分家の爺だって肩身広く道路あるぐごとにもなるべ」
 そんなやりとりを聞いていたおよねは、元気に満ちた、そして晴れ晴れとした声で言い出したのでした。
 「おらァ思い切ったでァ。えぐ(行く)気になった。人ァ一度ァ死ぬんだォなに」

 誰一人、何も言える者はいませんでした。大きないろりには薪がどんどん燃えて、車座に座っている人たちの顔を照らしていました。彼岸の頃のかくしの吹雪 が時々窓に吹きつける音のみで、深夜のいろり端には、咳一つする者はなかった。そして、かしき座の隅に座っていたおよねの母のかすかなすすり泣きの声が、 人々の胸を強く痛めるのでありました。

 軒を埋めた雪が次第に消え去ると、沢内には急に春が訪れるのでした。屋根吹き替えの手伝いに集う男たちの間でもおよねの噂で持ちきりです。村の困窮を救 う女傑と誉める者、同情と義憤の気持ちで慰める者など、いずれこの狭い沢内から殿様のお城に上るという開びゃく以来の出来事だけに、村の話題を総ざらいに 七十五日間続くのでありました。
 そんな噂をよそに、吉右ェ門の家では娘の出発が近づくにつれ、仕事も手につかない毎日を送っていました。
 田打ちが始まった頃のある夜、新山には村中の人が集まって、感謝の酒宴で大騒ぎでした。いまさらながらおよねの美しさを口々に褒めそやしていました。座 敷では飲めや歌え、そして沢内甚句を歌い始めるのでした。およねは一人、家の西にある檜の古木の下に立ち、蛙の鳴き声を聞きながら、懐かしい友だちのこと を思い浮かべていました。自分の行く末に不安な気持ちは頭から離れることはありませんでした。
 とやかくするうちに、その日はやってきました。お嫁さんのような髪、着たこともない矢絣の袷、黒朱子の帯をしめて正装したおよねの姿は高貴で、微塵も田 舎娘などではありませんでした。多くの村人たちに見送られて、およねは住み慣れた家を、そして村を後にしたのでした。
 「んだらえってくる」
それだけの言葉を残して、、。
 かよわい女の身で一村を救うけなげなおよねは、こうして寂しげな微笑を一同に見せながら、悄然と出かけるのでありました。


〜高橋善二『沢内の民話』(沢内村教育委員会)より抄録